『百年の孤独』初文庫化という事件
ガルシア=マルケスの『百年の孤独』が、ついに文庫になった。
その発売日に、私は新宿の紀伊國屋書店へ買いに行った。そう、本日である。わざわざ行った。ネットで注文すれば済む時代に、わざわざ書店へ行った。なぜか。これはただの買い物ではなかったからだ。
私にとって『百年の孤独』は、若い日のどこかに刺さったまま抜けない、文学という名の杭のような本である。
20歳の頃、古本屋で出会った『百年の孤独』
はじめてこの本を手に入れたのは、たしか1981年か82年あたりだったと思う。私は20歳を少し過ぎた頃で、下北沢あたりをうろうろしていた。
その頃、『百年の孤独』が文庫であるはずがなかった。少し高価なハードカバーだった。私はそれを古本屋で見つけた。買った。そして読んだ。読んだ、読んだ。
わかったような、わからないようなまま、ページをめくった。けれど、普通の小説ではないことだけはわかった。物語が直線で進まない。血が巡るように、土地がうめくように、人の名前と運命が何度も戻ってくる。時間が円を描く。死者も記憶も、日常のすぐ隣にいる。
マジックリアリズムと鼓直氏の記憶
その後、翻訳者の鼓直氏の講演を聞きに行ったことがある。
「マジックリアリズム」という言葉を、その頃の私は呪文のように受け取っていた。現実なのに幻想で、幻想なのに現実である。そういう世界があるのだと知った。
マルケスの物語は、回る。ぐるぐる回る。家族の歴史、土地の記憶、政治、暴力、愛、孤独。それらが渦になって、読む者を巻き込んでいく。
中上健次も寺山修司も虜にした物語の力
私が虜になった中上健次も、寺山修司も、この本に強く惹かれたという。
それもわかる気がする。マルケスの物語には、土と血と夢がある。中上健次の路地にも、寺山修司の故郷喪失にも通じる、濃い匂いがある。
人間はただ生きているのではない。家系に縛られ、土地に引き戻され、記憶に呑まれ、それでも何かを書こうとする。生きること、読むこと、書くこと。それらが別々ではなく、ひとつの渦になって回り出す。
紀伊國屋書店の2階レジへ
そして今日、私は紀伊國屋書店の2階のレジへ向かった。
かつて20歳の私が古本屋で見つけた本を、今の私は文庫本として買う。時間は一周したのかもしれない。いや、マルケス風に言えば、時間は最初から円を描いていたのかもしれない。
若い日の私が下北沢をうろつき、古本屋でハードカバーを見つけた。その私が、何十年も経って、新宿の紀伊國屋書店で文庫版を手に取る。
『百年の孤独』は、ただの名作ではない。人生のどこかで出会うと、その後の読み方、書き方、生き方を少し狂わせる本である。
私はまたページを開く。
物語は、まだ回っている。
