ぼくが生まれたのは、太素塚の裏の路地裏の平屋の家だった。
ものごころついた頃には、ただ普通に家の窓から太素塚の森が見え、
ただ当たり前のように、太素塚の森の中で遊んでいた。
ぼくが生まれた1960年代は、高度成長期であり、
太素塚の裏は、まだ、広い空き地になっていて、
その中に、ポツリ、ポツリと民家が立ってた。
そこに竹の子のように生まれたり、集まったこどもたちの
不謹慎な話をしよう。
当時としては、市外に近い未開発の住宅地、ある種新興住宅地のような気配があった。
そして、太素塚という森は、太い杉の木が鬱蒼としながらも、
間を走るにはちょうど良い間隔で点在するために、
こどもたちにとっては、格好の遊び場だった。
特に、鬼ごっこ、かくれんぼは、
太素塚にうってつけの遊びで、ぼくたちこどもたちは、
新渡戸傳、新渡戸十次郎、新渡戸稲造、この3つの墓碑を
フルに活用しながら、森の中を駆けずり回った。
3つの記念墓碑とともに、子供たちが上ってぐるぐる回れる台座がついた鳥居。
新渡戸記念館の前身となる妙に荘厳な倉のようなつくりの新渡戸文庫。
そして、鳥居から入り、階段を上ったあたりの砂利敷きの真ん中に、
新渡戸傳がすっくと姿勢良く座りながら、遠くをまっすぐ見据える銅像がたっていた。
これらの意匠は、
十和田市の前身となる三本木原の開拓の歴史そのものを語るとともに、
そこに存在する人たちとその考え方、魂であったり、精神であるものが
表象として、わかりやすくいえばデザインとしてレイアウトされている。
だが、その絶妙なレイアウトは、血気盛んなこどもたちにとっては、
絶妙な遊びの道具にもなりえるのである。
青森県十和田市三本木原の聖地、太素塚の存在的意味を紐解く前に、
当時の子供たちにとって、いかに太素塚が身近な場所であったのか。
まずは、
太素塚裏のはなたれ小僧の目線から、思い出してみる。
題して、「太素塚の遊び方」。
こんな、こと書いたら、誰かに怒られるかな。
あ、そういえば、よく、怒られたよ。
あの人に。
コメント
今も子供たちは大人たちに御構い無しに走り回ってますよ。太素塚の伝統ですね。