武蔵野にて“想う” 東小金井駅 栗山公園にて

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今年の正月は、どうしても自分の東京における原点を手探りしたくて、武蔵境駅から東小金井駅の間を歩いてきた。

武蔵境は、小学校に入る前の5歳の頃の夏に、母親と冬になる直前になるまで遠い親戚の家に家出していた。

その最寄り駅であっため、18歳で上京してからずっと気になる場所なのだ。20代の頃、2度ほど、法事やらで、訪問させていただいたが、その後、駅の近くにあった家のありかがわからないし、連絡する人もいない。

東小金井駅の南側の商店街を抜けて西側に出ると栗山公園

東小金井に住んだのは、大学を卒業して即のこと。住んだアパートは駅の南側商店街からちょっとはずれたところで、何と、実は、当時の知り合いの演劇関係の方からの紹介で、ある人の又借りの又借りだった。

又借りであることは、隣りの大家さんには公認だったのだが、又借りの人物が仕事の用で浅草方面に一時的に居住しなかればならず、その合間の10ヶ月ほど、全く他人のぼくが住んだのだった。

でまあ、後ほど、当たり前ですが色々クレームがあって、ぼく自身も下の又借り人も(もはや元の借主も関係なくなった)追い出されるのですが、ともあれ、社会人になって一番はじめの居住地としては、東小金井という場所は、とても住みやすかった。

というのも、今でこそ、駅チカには、お洒落な店や飲食店、また風俗系の店があったりしますが、1980年中盤当時は、全くもって地方の街の小さな駅のような様相だった。

例えば、商業関連施設は、地場のスーパーが一軒のみ。居酒屋、小料理屋、寿司屋、ケーキや、薬や、ラーメン屋、それぞれがほぼ一軒ずつしかなかった。だから、短期間でも、他に行くところが無いが故に、常連になり、故郷の僻地の商店街のような風情で、非常に居心地がよかった。

また、住む人も、地元の小さな地主系の方意外は、学生や、若い子連れの家族が多く、近くの公園は、休日は子供づれの家族で賑わっていた。それも、さほどうるさくもなく、ちょうどいい賑わいだった。

などと、想い出を脳裏に綴っていると、栗山公園が見えてきた。

子どもたちが、滑り台で遊んだり、ボールを蹴ったり投げたりして遊んでいる。

今まで入り込んだことのない奥の方にいくと、裸体の女性が丸まって座っている彫刻を見つけた

作品の題名は「想う」。1994年 雨宮透という彫刻家の方の作品である

ぼくがこの近くのアパートに住んでいたのが、1986年の4月から12月ぐらい。
1994年。この彫刻が展示されたのは、その後だった。

とても深い作風ですので、いろんな角度から撮ってみる

やさしさ、かなしさ、慈しみ、いろんな表情が感ぜられます

50代に入って今尚、いやだからこそか、5歳の頃に母親と夜行列車に乗って、武蔵境の遠い親戚の家に家出して数ヶ月滞在した日々の空気や空を思い出しています。

ぼくは、上京してからのほとんどを、中央線、武蔵野の当たりに転々と移ってきました。
そして、昨年末、2年ほどの東北・山形を中心として各地を転転とする仕事をしてきて、またもや中央線沿線に戻ってきてしまいました。おそらく、もはや実家のない自分の郷里に替わって、同じような風が吹いているこの武蔵野の空気感が心地よいからなのだろう。

おそらく人には、帰るべき場所と、帰りたい場所が、それぞれが共存しながら宿命としてあるのではないか、と想います。いろんなところに方々行って、たどり着いたら元の場所。

帰るべき場所と、帰りたい場所、これが、今後の自分の人生の宿題のような気がします。

年明けの自称武蔵野ツアー日記は、また、ちょぼちょぼと続けます。

時間があけば、また、どこかへ行くでしょうし。

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