綿菓子泥棒を捕まえろ!

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写真出典:太素塚太素祭実行委員会

ぼくにとっての太素塚記憶のはじまりは、

太素祭(たいそさい)というお祭りでの出来事だった。

こどもこどもでありながらも、ぼくという個人が、

世界のしくみ=システムに気付くきっかけが太素塚にあった。




太素祭(たいそさい)とは、

太素塚という場所の根底にある魂を祝う祭りであり、

現在の十和田市というごく小さなかつ広大なる計画都市の

実現を祝う祭りである。

そのお祭りが、ぼくがうまれて家から、トットットッと歩いた先の

不思議な森、太素塚で毎年5月3日から5日までの、3日間催される。

後に述べるが、十和田市の開拓の起点となり新渡戸稲造の名前の由来となる、

稲生川という人口河川が上水された日、5月4日という記念日を祝っての祭りだ。

今で言うゴールデンウィークの只中で、

寒い冬から脱出した北国の春はとても嬉しい季節。

花が咲き、鳥が鳴く。

吹雪ではなく、温かい爽やかな風が吹く。

さまざまな生命力の躍動に、わくわくする。

その太素祭りでのこと。

ものごころついた頃、おそらく2歳か、3歳あたりではないか、

妙に、家の近くの太素塚という森の向こうがにぎわしいく、

なにやらドンドコ、ドンドン、なっている。

近所のこどもたちも、そわそわと太素塚へ行く。

それにつられた昼下がり、

ぼくは音がドンドコ、ドンドンとなる森の方へ歩いていった。

それはタイコか、あるいは歌なのか、定かではないが、

ともあれ、普段静かなご近所にはありえない

ドンドコ、ドンドンとした音がしていたのだ、。

まだ、太素塚(た、い、そ、づ、か)というの名前も知らなかったのかもしれない。

当時のご近所は、勝手知ったる他人の家ばかりで、

こどもたちは、5時の鐘か、どっかのオカッチャ(お母さん)の

「は、帰れ」(そりそろ帰れ)

の声が鳴るまで、一人勝手にご近所を歩き、走っていた。

今では考えられないが、2、3歳の頃から幼いこどもたちは、

ふつうにご近所を歩き回り、自分たちだけの道を発見し、

自分たちだけの隠れ家を発見し、自分たちだけの遊びを開発した。

犬、ネコ、鳥、虫、材木、木の枝、おがくず、石ころ、

いまでいうゲームキャラよりも不思議な遊び道具が、ゴロゴロそこらへんにあった。

これら一式そろった遊技場が、太素塚ということになる。

当時まだブロック塀はなく、

鉄柵だけでかこまれていた太素塚の森にはいり、

木々を抜け、3つの記念墓碑を抜け、

おぼろげに覚えている新渡戸文庫の蔵を抜けると、

横目に木枠でできた屋外ステージで何かをやっていたはず。

そして、新渡戸傳の銅像を抜けると、境内の入り口両脇に

出店が並んでいた。

しばらくぼくは、その出店の隅で立ちんぼうのまま、じっと

そこで行われていることを見ていた。

大人や子供たちが、たくさん来て、そこで何かをしていた。

後々こまかにわかっていくけど、いろんなものが売られていた。

おでんやら、オモチャやら、いろんなものが売られていた。

ものごころついたばかりのぼくは、

売られている、という意味がわからなかった。

もちろん、小銭もなにももっていない。

けれど、ふわふわのビニール袋に入った

綿菓子の味だけは知っていて、大好きだった。

親と手をつないでやってくるこどもや、

年上のお兄ちゃんや、お姉ちゃんが、

何かをしてその綿菓子をもってゆく。

何をしているか、さっぱりわからない。

つまり、ふつうにお金を払って綿菓子を買っている、

その意味がわからない。

つまり、お金という存在もしらなかった。

けれど、綿菓子は欲しい。

だから、綿菓子売りのおじさんの近くにいて、

じーーっと、綿菓子が売れてゆくのを、ただ立ってみていた。

おそらくは、

「はい、いらっしゃい」

「ひとつください」

「はい50円、ありがとう」

みたいな会話がどんどん進んでいったんだろう。

綿菓子は売れながら、おじさんは、また新しく綿菓子を作る。

綿菓子を作る丸い器械に割り箸入れて回して作って、ビニール袋にいれて、

また、売れて、を繰り返していたのだろう。

ビニールの綿菓子は、露天の枠につるされて、

いい感じで、ゆらいでいる。

ぼくには「けろ」(ちょうだい)という思いはなかった

ふつうのお客さんが、お金を出して買うように、

自分が綿菓子を手に入れるすべを探し、観察していた。

いつか、ぼくの手にも綿菓子がくるのではないだろうか、と。

じっと、綿菓子おじさんと、ゆれる綿菓子と、買ってゆく人たちの

流れを見ていた。

ぼくは、どのくらいたって見ていたのか。

そうそう短い時間ではなかったはず。

しばらくすると、

綿菓子売りのおじさんは、

長時間じーっと、商売を見続けているはなたれ小僧の

何かに根負けしたのか、

「ほれ、もってげ」

という具合に、

綿菓子が入ったビニール袋をぼくによこしたのである。

記憶の中でのぼくは、さも当然だと思い、

ありがとうと言ったのか定かではない。

綿菓子おじさんから受け取った綿菓子の袋を手に持って、家まで駆け出した。

うれしかった、と思う。

とても。

おそらくね。

が、話はそれで終わらない。

太素塚の森を抜ける途中、どこかのお姉さんに呼び止められた。

「ぼく、ちょっと待って」

ぼくは立ち止まった。

お姉さんは、しゃがみこみこどもの目線にあわせて話していた。

お姉さんが言った言葉をよく覚えている。

「ぼく、これはね、お金で買うものなの」

ぼくは、黙っていた。

お姉さんは、言った。

「お金を払わないと、泥棒になるのよ」

ぼくは黙っていた。

お姉さんは、言った。

「さ、これ、返しましょう」

ぼくは、うなずいて、綿菓子をお姉さんに手渡した。

お姉さんは、その綿菓子を持って、綿菓子おじさんの方に向かった。

商品を受け取りながらお金を払わなかった、

はなたれかっぱらい小僧から取り返し、

正義と平和のために、売り主に無事返却したに違いない。

ぼくは大して気にもせずに、家の方へ向かった。

何か不思議な感覚だった。

おそらく、その話をぼくは両親に話したと思う。

本当にものごころついたばかりなので、

何かにつけ厳しかった母親が怒った記憶もない。

おそらくは、父親が、お金についてはじめてぼくに教えたのだと思う。

その後、お祭りの最中に、ぼくは父親に綿菓子を買ってもらった。

父親はぼくの目の前で、お金を払って綿菓子を買い、ぼくに渡した。

太素塚を思うと、まず、この出来事を思い出すが、

あの正義の味方のお姉ちゃんと、綿菓子おじさんは

ぼくから奪還した綿菓子を間に、どんな対話をしたのだろう。

そのわだあめ(綿菓子)、あのわらし(こども)に、けだ(あげた)ものだ。

いや、かっぱらったと思ったんで。

さあ、わからない。

だが、大人になってから振り返れば、

ぼくにとっての経済という概念が幕をあける出来事だった。

そして、お祭り、縁日、お店、価値の交換、

北国の小さな一つの国の経済を起こした魂の中心地と考えれば、

その近隣で生まれ育ったぼくにとっては、

価値と価値の交換をはじめて学ぶには

太素塚のお祭りは、とても相応しい場面だったと思う。

しかし、だが、いまだに、どうかんがえても、

あのわだあめ(綿菓子)は、わだあめおじさんがけだ(くれた)ものだ。

オラのものでねが。

オラはけろ(くれ)とはいってね。

金で買ったんでね。

情熱と執念で買ったのだ。

(と、思ったりもするのだ。)

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参考サイト

太素塚とは(太素の水プロジェクトより)

コメント

  1. taisonomoribito より:

    子供の頃の太素祭の舞台の賑やかさと人ごみの混沌を思い出し…行くと何かしらの事件(誰かがお金を落とすとか、友達とはぐれるとか)があったような…太素祭のヒヨコやで友だちがヒヨコを買って親に怒られ、しばらくしてニワトリになって更に怒られてました。

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