予言者としての中上健次

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ふと、インターネットで語る、ということ、そのこと自体を考え直したりしています。

30代最期の年の夏に、WEB、ネット、インターネット、ホームページ、サイトという記号が流布し、価値が一定化する前に、こんな惑いの中新たな仕事を模索していた、不惑の自分が、当時のウェブサイトで書いていました。

その頃の代表的な文を再度掲載して、自ら、今後を考えて見たいと思います。

予言者としての中上健次

(2000年8月12日、氏の8度目の命日に及んで)

このサイトに関連するメールマガジンのタイトル“ハングリー・ヴォイス”も、コラムの名前である“RUSH”も中上健次の影響の元に作った。

“鳥のように獣のように”というエッセイ集があり、そこの一編のタイトルが“アングリー、ハングリー”。連続企業爆破の犯人と、暴走族、さらには佐藤春夫と大逆事件の大石誠之助にまで話は及んでいる。

さらに当時のまだ存在意義を十分持っていたイギリスの怒れる作家、アラン・シリトーの“土曜の夜と日曜の朝”という労働階級からの今で言えばパンキンシュな日常の物語を多面的に引用している。

そこに記される中上氏の想いの吐露は、“アングリー、ハングリーを知らない人間を、若者を嫌いだ。信用できない”その一言に、要約されるだろう。

“RUSH”は、当時ヤングジェネレーションに向けたエッセイ集、“破壊せよ、とアイラーは言った”の中のコラム集のタイトルであり、それは週刊プレイボーイに連載されたものだった。そういう些末な記憶の隅から緻密に影響を受けている。

中上氏の概略を述べる。

中上健次は、膨大な作品を残した小説家であり、エッセイストであり、映画評論を時事的に書き、生まれの紀州和歌山の新宮を中心にした紀行文を書き、アジアからヨーロッパを隈なく旅し、文学者、音楽家などオルナタティブなクリエイターのほとんどに出会い、しかもその接触は当時に砂漠と化したロック、ジャズにも及び、
更にガルシア・マルケスのノーベル賞の受賞によりマジックリアリズムとレトリックされて初めて評価されたラテンアメリカ文学の重鎮たちとも数多く対談しており、更には文学的接触は東南アジアの作家の作家群にも及び、一度引退した日本の流行歌の語り部・都はるみの復活に大きなモチベーションをもたらし、その頃流行の吉本隆明氏はもちろんのこと哲学界、評論界にも口出しし続けて真っ向から勝負した、途轍もなく多面的で、重層な言葉を駆使し続け暴力的で繊細で強烈な発言者だった。

時には人を殴りつけていたたらしい。曖昧な発言者は徹底的に言葉とカラダで叩きのめした。彼の発言集を読めば一目瞭然だ。

そして、最盛期である30代は、100キロをゆうに超える、巨漢つまりデブだった。現実にはその肉体的存在感が他を圧倒し、緻密な言葉の積み重ねが、追撃する。そんな作家人生の印象だ。ついでに上京したての頃のクスリとジャズびたりのラリッパッパ時代がミソをつける。

その生い立ちに遡れば、僕が全く足を踏み入れたことのない和歌山県新宮市の非差別部落に生まれ育ち、その地を激愛し、全世界の中心として位置させ、その心象風景を小説の中に集約させ、普遍的な人間の業を時間を超えて再現し、いわゆる中上サーガといわれる物語の系譜を作った。ひいては、地元住民を集めて無形の学習体
系・熊野大学を作る程の郷土的な人物でもあった。彼は小説、評論、エッセイ、さらに演劇の脚本、映画のシナリオと膨大な作品を残した。

彼は、1992年、8月12日に郷里新宮市で、肝臓ガンのため死んだ。
その時、彼は享年46歳であり、僕は30歳だった。

19才から20才にかけての僕は、そんな中上健次のほぼリアルタイムの言葉の洗礼を受けながら、精神的な山を乗り越えようとしていた。

その山とは、地方と都会、周縁と中心、本道と異端、つまり、地方から出てきた生意気な少年が、どのようにして所謂スタンダードとの距離感を保ち、あるいは撥ねつけながら生きていくのか、その生きていく基盤の意志決定だったと思う。

当時の僕は、青森県から出てきたばかりのまだ頬に赤みが残っている妙にギラギラした眼をした青年のなりそこないの若造だったはずで、文学が好きで、ジャズが好きで、新宿のジャズ喫茶を目指し、行けば誰か哲学の本を読んでいる人物がおり、話しかければ世界の構造についてとことん話し合える期待感をもったまま真夜中の
急行列車に乗ってきたばかり、結果的に即失望の損底に叩きつけられた、ただの世間知らずの遅れた田舎青年だったはずだ。
(香取慎吾がどこかのバラエティー番組でやっていたアレを思い起こしてもらいたい)

今思えばそうだが、当時はそんな自重する気分のカケラさえもっていなかった。青森県出身というだけで、田舎者よばわりされることに憤慨しつづけ、常に他者に対していきり立っていた。平たく言えば地方コンプレックスの固まりだった。

1980年が状況したその時で、原宿にタケノコ族がいると聞いて、本気で露天でタケノコを売っていると理解し、その旨を入ったばかりの大学の同級生に話して、ケラケラ笑われ、逆に凄んで嫌われる。そんな会話の術しか知らなかった。

想像が容易なように、ディスコだ、レジャーだ、DCブランドだ、と消費文化が始まり、バブルの予兆が示される直前のその頃、時代の流れに逆行する価値観で染められた僕は、東京に失望し、あるいは世界に失望していた。なぜなら、東京は僕にとって、世界だったから。視界の地平線は、上野駅から降りた場所、東京というエ
リアまでだった。

だから、中上健次の小説、エッセイとの出会いは、今でも生涯最大の衝撃であり、また希望でもあったと断言できる。すでにそれなりの社会知識を得てしまった今、これからこれ以上影響を受ける人物はないと断言できる。人生の構造として、逆の意志が出ることはあるだろうが。

僕が、中上健次の言葉の爆風、あるいは濁流に乗っかった理由は、そこで想像できると思う。要は今風に言うと、中上健次というパンクでオルタナティブでスピーディでローカルでディープな人物が、意気軒昂に酒を飲み続け、激論を戦わせ、人を殴り、反省し、はたまた仕事部屋に帰り、集計用紙にちまちまと今の女子校生のよ
うな丸文字でちっちゃな文字をびっしりと書き綴り、それを絶え間なく続け、最後に膨大な物語を構築し、その完成度を自慢し、俺のことを理解せよ、理解せねば殴ると編集者、関係者を脅し、本にし、本屋に並べた。

その結果、田舎者という概念から抜けきれず、ひっそりと何かを企みながら、非力さに絶望し何も実行できずにいる19歳の僕の手元にそのコトバが届いたのだった。そして、ほぼ僕と同じ様に自己の非力を自覚しながら認めることを良しとしない、生意気な若造どもの心を捉えた。

超マイナーなデブ野郎が、その見かけからの想像を絶する超緻密に仕事をしている。更には世間のあらゆる文化的な場面の表現という表現に対し完全にリードしている。

己のあらゆる意志を拒絶する消費文化に取り残された日本有数のマイナー地方から出てきたばかりのこの田舎少年が、文学、映像、音楽というメジャー場面に、片っ端からマイノリティので切り込んでいく姿に、惚れられずにいられようか。

今のレトリックで言えば、“田舎者力”とでもいえる超マイナーパワーに、僕はひれ伏してしまったのでした。そこでの僕の田舎者力は、彼のそれに比して微塵にも満たないちっぽけなものだった。だからこそ、憧れ、その位置に届こうともがき始める。

田舎者という単なるマイノリティ感にひしがれてる僕は、彼の田舎者、デブ、非差別部落出身という豪華なマイノリティの勲章そのものでも敵わなかった。非差別部落が存在しない地方から出てきた僕は、非差別部落という存在自体もよくわからなかった。

土台が違った。彼は知性と暴力的な体力を持っていた。僕は、幼い知性のひとかけらと、暴力的な意志にそぐわない比較的大きくない体しか持たなかった。

こんなレトリックはばからしいのかもしれないが、僕にとって中上健次とは、“きらめくマイノリティの星”だった。

その星について語りたい。

☆☆☆

彼が亡くなってから、僕は中上健次に関して発言することは避けていた。その中上健次が亡くなって、早8年立ってしまった今、僕の考える中上健次の現代的意味をここで発言したいと思っている。 その理由は僕が今まで語れなかった理由と直結する。

僕が、何故、中上健次について語ることを避けていたのか。それを理解しやすくするために、最近あるインターネットの場所で、中上健次について所謂WEB的なコミュニケーションで語った短い軌跡を読んでもらいたい。

コミュニケーションの形態は掲示板、あるいはメーリングリストどちらでも想像してもらってもいい。ともかく、大切なのは、“見知らぬ者同志が一つの人物について勝手な意見を述べているということ”に尽きる。

以下、中上健次について自由闊達な意見を交換しようというインターネットの場面をそのまま再現する。一応アドレスが分かる発言者本人に掲載の許可を求めましたが、レスポンスがないので、ともあれ無名の人物としてハンドル等の名前を伏せ、若干の編集を加えて掲載します。

★★★★★★

題材:中上健次について

A氏:
現代日本文学最後の巨人だと思っています。長生きして、いい翻訳家が海外にいたらノーベル文学賞を受賞出来た人だと思っていました。以前、新宮を通りかかった時、『地の果て至上の時』(中上氏の作品の題名)という名の飲み屋があり、妙に感動した記憶があります。一番好きなのは、『枯木灘』です。

B氏:
生きている上での、目をそむけることのできない、衝動とか、原始的な、ものすごいエネルギーを感じます。私も「枯木灘」がいいと思います。といってもそんなに読んでるわけじゃないんですけど。彼の世界が凝縮されてる気がして。でも「枯木灘」の緊密な世界より、「軽蔑」で初めて著作に触れた時の衝撃の方が私的には大きいといえるかもしれません。和歌山市に住んでいるのですが、私もたまに南の方へ行くときは、特急に乗ってちらちらと見える枯木灘を見るたび何か郷愁のようなものを感じて切なくなってしまいます。

C氏:
「岬」「枯木灘」「地の果て至上の時」という流れも好きですが、「千年の愉楽」「奇跡」の流れも好きです。サーガ(長編)を読みきるには、あと、どれだけ時間がかかるのだろうか? ぞっとしてしまいますし、楽しみでもあります(後期のものはちょっといまいち読みこめないです、いまのぼくでは)でも、若死にしなかったら、どれだけ膨大なものが残ったことでしょうか。すでに膨大で、偉大ですが。

B氏:
中上健次とJ.コルトレーンがどことなく似ていると思っているのは、僕だけでしょうか。僕が、分野の異なるこの二人に接したのはほぼ同時期でした。そのためか、この二人に共通したバイブレーションを感じています。『岬』と『マイフェイバリットシングズ』、『枯木灘』と『ア・ラヴサプリーム』、『地の果て至上の
時』と『アセッシオン』と作品に対応関係もあるような気がしますが。確かに中上健次はアイラー好きだと言っていますが、深い情念を叩き付けるところなんかは、コルトレーンに近いと感じていますがいかがでしょうか。『千年の愉楽』『奇跡』の流れは、コルトレーンの膨大なライブアルバムに対応すると思っています。

boxinglee:
初めてこんな比較論を読みまして、目から鱗がでそうな感じです。確かに、コルトレーンの発展の仕方と中上さんの小説の進化は大変似ていると僕も思います。コルトレーンは瞑想し、修行しつづける僧侶のようですが、アイラーはどちらかというと良い意味で踊り念仏のような気がします。コルトレーンの神に対する果てしない
探求心とアキユキ(「岬」「枯木灘」「地の果て至上の時」3部作の主人公)に見られる放浪する心、アイラーの神に対する切ない憧れ、こんなベクトルの違いじゃないかなと思います。中上さんもコルトレーンもリフレインの中に微妙なズレを発生させ、さらに全体像が変異していく方法で作品を解体しつづけてきたけど、ひとえにそれは、(坂口)安吾の言う故郷のようなものであり、中上さんの路地の解体と、世界の(WEBコミュニケーションによる)解体に連動しているのではないでしょうか。

B氏:
リフレインの中に微妙なズレというのは、いい表現ですね。ところで、boxingleeさんは、『地の果て至上の時』については、どういう感想をお持ちですか。僕にとって、意図的に読みにくくしたとしか思えない文体を持つこの小説は、巨大な存在感を持ち、好き嫌いを圧倒するような所がありながら、どこか正体不明な感じが残る。そういった小説です。出版された時は、文芸評論家から「こんなわかりにくい文章を書くな」と罵倒されていたような記憶があります。『破壊せよ、とアイラーは言った』20年ぶりに読み返しています。中上さんというのは、ひどく基礎体温が高い人だと改めて感じました。

D氏:
中上健次はねえ、なんか「客観批評」できる対象じゃないと思うんですよ。中上を論じても仕方ないというか、論じてる様を中上に見られてて「なにをアホなことやっとるんや」と嘲笑されてるように思う。柄谷(柄谷行人、批評家、中上健次と若くから深い友好があり最大の理解者、『中上健次全集』の編集委員)はともかく、渡辺直巳(評論家、『愛おしさについて』という中上健次の評論の著書を刊行)なんて中上が生きている間、中上がバカにしまくった批評家やんか。それが何を言ってるのかと、ちょっと呆れちゃう。批評家なら、中上以後、中上の開拓した文学世界を継承して豊かにしていく才能を育てることに力を注ぐべし。作家志望なら、中上を超越することに命をかけるべし。でもそこまでの力量がないから、「あの人はこういう人でした」って喋ってるのさ。ワイドショーでさ、故人のあれこれを喋る人って、必ずたいして仲良くなかった人でしょ。そんな感じ。

boxinglee:
その発言の意味、気分としてはよく分かります。渡辺さんの解釈の仕方は一つの見地としてあると思います。それと、批評することは文学それ自体の面白さだと思います。そもそも貴方の発言自体が中上を論ずることになっていると思います。中上さんは、彼以前の作家を引用して小説を書き、評論を書いていた。彼がバカにしていた人物をあげつらってバカにするのも盲目的でつまらない。このような発言を止めろ、というのならそれは貴方自身の中上的解釈だと思います。取り込まれるのがバカらしいのでここでの発言はここで終わりとします。

E氏:
(boxingleeに向けて)すいません。とてもお相手できないと拝見しているだけなんです。友人に“いい、いい”と言われ続け、雑誌やネットで耳にタコができるぐらい聞いているのになんか遠ざけてしまう作家。気になるけれども、だがしかし……というのが私にとっての中上健次なのです。読まなくてはと何年間も思い続けている作家です。「枯木灘」を1、2ページ読んでそれっきりになっています。一人語りはおつらいかもしれませんが、 中上健次の魅力について教えて頂ければ幸いです。

boxinglee:
中上さんや、丸山健二さんの発言をすると、激愛するのはいいものの、それを語ること自体に強烈なレスポンスをいただくことがあります。正直いって酒場でもそんな経験があります。下手をすると罵倒されます。受けて立ってもいいのですが、下らない結果しか残らないので、このメールのやりとりはやはりここで止めます。

★★★★★★

僕はここで勝手に発言を止めてしまったわけなのですが、その後のレスポンスは来ていません。

正直D氏の発言に僕はカチンと来ました。その印象を語るのは言葉が汚くなるので止めます。ただ、僕はD氏の中上に対する思いは理解できるのは、確かです。平たく言えば、“お前などに中上が分かってたまるか!”ということが彼(彼女)の言いたいことなのでしょう。それは僕自身も同じ様な思いをもっていたからこそ、理解できるのです。

ただ、その俎上で“その意味が分かる”と言えば、必ず反論が来る。すると更に僕は発言する。それが繰り返され、酔っぱらいの喧嘩にも劣る丁々発止になる。それが中上的な酒場の嵐の再現になると僕は考えたわけです。最後の僕の発言で、“下手をすると罵倒されます”というのは現実にも未だ起こりうることです。

以前別のメールマガジン“中央線大作戦”のSOUL LOVERとの対談形式のコラムで、僕は中上健次についてこんなエピソードを挿んである。 それは実は中上氏が生前たまに飲みに来ていた酒場での出来事でした。

 “中上さんに関しては、ファンは皆一筋縄でいかない人が多くて、飲み屋で語っていても、喧嘩になる場合があったりして難しい。これも、僕の嫌いな文学オタクの方々です。ちょっと口論して形勢が不利になったと勝手に自分で思いこんだ青年に、“ではキミは、三島と谷崎潤一郎の○○をどう思うか?” なんて指さしてきた一回り下の奴がいた。困るんだね、こんなオタクは。所詮文学のことなんて、他人に語っても意味ないんだよ。読むか、書くか、そのどちらかだけ。あとは、黙って、自分らしく生きていればいいの。生きるために文学があり、生きているから文学が生まれるだけだよ。”

“文学とは生きること、そのものである”というような言い回しは、生前の中上氏の口癖だったらしく、実際にエッセイでも同じようなフレーズが頻繁に現れている。

この中上健次に対する意志は、明らかにカルトな特権意識に近いものだと僕は思っている。当然自分の中にもあり、“中上健次は俺にしかわからぬ。お前などの云々言われてもしょうがあるまい”、そんな気分も否めない。だから先ほどのD氏の発言を気分として認めるわけです。

僕は、そのことに対して批判したいとも思わない。逆に肯定する気分もあるの。思い入れ、それ自身が中上健次の魅力であるからだ。けれど、ただ気にかかるのは、教祖的な存在として、中上健次が本人がいぬままに君臨させられてしまっている。それは中上健次の生きてきたあるいは創造してきた功績とは全く別のものであり、
中上健次という作家は本人の実像と作品だけに収斂されるべきものではないと思うのです。

ひと頃の中上健次は、自分のことを“俺はシャーマンだ、呪術師だ”と断言してはばからなかった。現実に彼は、日本は元より韓国、モンゴル、エスキモーの国をはじめ、世界のシャーマンを思わせる土地に出向き、著名な創作家と出あい語り合っている。それが実際の中上氏のシャーマン的な能力の実証に結びつくかは別の話ではある。

中上氏が亡くなった時、梁石日氏(作家、作品に「月はどっちに出ている」「タクシードライバー日誌」等)は、同じマイノリティ(在日韓国人)として、“彼はシャーマンではない”と真っ向から否定した。その現実的な力を判定すると否定するしかないと僕も思っている。

だが、彼のシャーマン的な能力とは、呪術とか占星術とかそのような範疇のものではなかったはずだ。それは、本人の言葉、さらに深く言えば言霊の力、そして現代風に言えば、コミュニケーションの力に他ならないと僕はここで断言する。

先に結論を述べれば、中上健次こそ早すぎたインターネットそのものの人物だったということです。

古きマイノリティとしての視点の中上ファンならば、気分を害すような比較をさせてもらう。

中上健次とう人は、ポータルサイト的な人だったのだと僕は思う。更に不快感を増長するのだが、同じ様な人物が他にもいて、あげつらえば、“男はつらいよ”の渥美清、故小渕恵三元首相、ブルース・リー、マルコムX、矢沢栄吉、アントニオ猪木等々。少し安心させるならば、坂口安吾が図太いながらコミュニケーションのスタイルとして共通性を持っていると考えられる。

彼らに共通するのは、その人物自身のポジションがマイノリティから始まっているということだ。そのマイノリティの価値観とは、人によっては顔かたちの優劣であり、貧富の差であり、肌の色であり、国家との闘争であり、知力の有無である。それは誰にもある生まれもった性(さが)の問題である。着目しなくてはならないのは、その人自身と全世界とのインターフェイス、つまり関係性である。

正直、マイノリティに生きた彼らよりも更にマイノリティな人たちはゴマンと存在する。その他の有象無象と彼らの違いは、一つに一芸に秀でたことが挙げられる。しかし、もう一つが要である。それは“己の孤独な位置を確実に認識する”ことだと僕は思う。

つまり、“ああ、俺って悲しい”という感傷的レベルではなく、どの程度悲しいのか、どの位置で悲しいのか、悲しい理由は何か、悲しいことをどこで感じるのか、そして、他の同じ様な悲しみはどこにあるのか、その悲しみを共有できる場所はどこか、悲しみを理解しあえる人はどこにいるのか、その人にはどのようにして遭えば良いのか、理解しあるコトバは何か、これらを考え続け、探し、発見し、己の言語と通信メディアを開拓することである。更には、出会った人との対話から生まれるインスピレーションの連続を自己のアイデンティティに重ね、更なる自己を創造し、更新していく。つまり作品は連綿とつながっていく。

前に上げた関連人物の生き方、創作の仕方、あるいは死に方を思い起こして欲しい。かならず共通性が見つかるはずだ。

中上健次のコミュニケーション形式はこうだ。そのマイノリティーなポジションを傘に立て、あらゆる多面的な場所に移動し、扇動し、種をまき、狼煙を上げ、己の場所に帰ってくる。つまり故郷だ。中上健次的世界で言えば路地、あるいは坂口安吾的世界で言えば故郷になる。さらに新たなる理解者を求め、新たなコトバを吐き出し、人を殴りつける。そぐわない人物は罵倒し、ふるいをかけて、己の理解者だけを吸引する。常に固まりそうになる自己の世界に揺さぶりを掛け、自己の定住する位置も更新していく。

中上健次が、他の比較される人物に比して群を抜いた位置にあるのは、その世界とのインターフェイスにおいて、全く持って全世界を念頭においたコミュニケーションを実践していたことだ。

中上健次が彼のほぼ全作品の中心舞台にしていたのが、彼が生まれ育った土地をモデルにした“路地”だった。そこに源平の落ち武者らしき人物を発端とした連綿と続く一族の系譜があり、その血筋の流れに完全なる部外者としてのアンチヒーロー的人物が、中上健次本人をモデルとした主人公アキユキの前に立ちふさがる。それは主人公本人の実の父親でもある。さらに彼の回りにはその父親が種をまいた異母兄弟、そして同じ母親が別の種を宿して生みおとした異父兄弟(姉弟)が生きている。物語は語り部をとおして過去へ遡り、未来へと飛び、そして現代においては、兄が縊死し、主人公本人は、義理の妹と交い、弟を殴り殺し、父親は自殺し、その路地は土地開発により解体され、その残った場所にも放火され、それが主人公アキユキであることが示唆される。物語の進行を別とすれば、この物語の人物構成そのものが中上健次の家系図である。
(あまりに物語が入り組んでいるので、まちがいと思われる箇所があると思われますが、今は、物語の解説は論外とします。)

中上健次が作ろうとしていた物語の世界は、ほぼ全世界のパッケージとして解釈してもいいのかもしれない。路地が全てということではない。路地という時間と血筋と人間の性の系譜そのものが世界であるということの意味空間とでも言おう。

当初、僕が読みはじめた「岬」から「枯木灘」は、その世界の意味的空間の解釈として読むことができた。しかし次作である「地の果て、至上の時」における路地の解体、放火、絶対権力者として君臨していた父親の自殺は、まさに中上健次本人の世界との交信の転換と同時進行する。

彼が、自分をシャーマンだと言い始めるのがその頃で、さらに彼は、全く僕たちが予期せぬ場所へ旅を続け、そこから時間を過去から未来へとずらした小説を発信するようになる。彼は世界を感じる個人として、世界の個人へ出会いにいった。

ここからが僕の解釈である。

彼は自己を更新する作業にかかった。そのためにマイノリティである自己にあらたなインスピレーションをもたらす同じ感性あるいは同じ価値観をもつしかも文化圏、言語圏の違う個人と更新しに旅に出た。そして時々もどる。作品を書く。作品は都市化がすすむ全日本の地方の地方性、独立性の解体そのものを描くために、時
間の軸をずらす。物語に上位レベルの語り部が必要になる。そこに新たな人物オリュウノオバが登場する。彼女は「千年の愉楽」という作品においては、過去からの語り部として位置するが次第に、時空を超えた語り部に変化する。さらにもっと上位のレベルの語り部として、路地の土着者の一人トモノオジが「奇跡」において、時空を超えて、時に風や水、魚の視点で路地の人々の悲劇を見つめることになる。おそらく、これらの視点、視座の位置をスイッチする感性を、中上氏は現実に場所を移動し、別の言語と話し、別の文化の俎上で話すことで体得していったのではないかと思う。

彼は、マイノリティの星として世界中のマイノリティのキラ星に出会い、自己更新し、他のマイノリティの力を自己の世界観の中に増幅させた。つまり今風で言えばコンテンツを強化させ、変幻自在に編集しはじめた。自己の世界は他の世界とつながっており、その接点の仕方を編集の仕方により、マイノリティの世界は他のマイノリティの世界に通じ、瞬時に共時性をもてる、そんな感覚を身につけたのに違いない。つまり、彼はマイノリティという個人そのもの意志の稼働性に強固なものを発見し、それをリンクし、自己増幅させるという作業を最盛期に実行し続けたといえる。

シャーマンとしての中上健次とは、このようなコミュニケーションによる物語の増幅能力だったのだ。

僕が何故、彼、中上健次について語りたくても語れなかったというのは、つまりマイノリティの力を彼のように増幅させる能力に欠け、また、いくら彼を追い求めても絶対的に敵わないというの自己能力の限界を、年齢を経るにつれ自覚していったいたからだと思う。だから、僕は、僕なりに密かに中上健次のファンで居続けようと考えた。だがその途中、彼は若くして死ぬ。

今思えば、僕は中上健次をまさに現在でいうポータルサイトとして取りすがっていたのだと思う。つまりマイノリティである自分という個人を、全く別の世界にいるおそらく僕に近い感性に近い個人に、小説、エッセイ、あるいはその他の作品を媒介において引き合わせてくれる一つの場所として、中上健次の世界を僕は利用していたのだと思う。

故に彼の死は、僕自身が全世界と更新するための最大のチャンネルを喪失してしまったことと同じ大きな出来事だった。その死に際して、“ならば仕方あるまい。自分そのものが世界と交信できるメディアとなろう”と決意したものの、僕のコトバの武器はまだまだ未熟だった。それよりも超マイノリティな力を持った中上氏のような実行動によるコミュニケーションする力を備えていなかった。それが30歳の自分であり、27歳で芥川賞を獲得した「岬」を書いた中上健次と僕の力の差は歴然としたまま、更に全くの他人のままその関係は終わってしまった。

ここで中上健次について語る必然性を理解してもらえると思う。つまり、シャーマン、あるいは予言者としての中上健次は、自己の本当のルーツである“路地”解体そのものを閉鎖的なコミュニケーションの解体へと昇華させて、利用し、全世界を視野においた路地という概念を作りあげた。それは、おそらく中上健次そのものが、旅をするときの交通手段、通信手段のスピード化を察知しており、さらに現実に予期する他者との出会いを重ねたことにより、世界レベルでの意識や意味の共有の可能性を実感したことによると思う。俺という人物は一人ではなく、時間的に、意味的に、空間的に、確実に世界につながっているという感覚をいち早く察知したのではないだろうか。エコロジー感覚がポップになる遙か以前のことだ。

インターネットにおけるメールマガジンというマイノリティが主体となるメディアに乗っかることより、僕自身のちっぽけなマイノリティパワーを自己の意志で届けたい人に届けることが可能となった。そう、つまり、その可能性を語ること自体が、中上健次の功績そのものを語ることになるとと、今、僕は確信している。

マイノリティーをもっとかみ砕くと個人に戻る。個人とは、今で言うパーソナルであるということ。個人が意見を発し、それがワールドワイドに通じる可能性を前提にしているということ。それすなわちworld wide web。

屈強な精神と体を持ち、パワフルな作品を膨大に書き残した中上健次は、実は弱者のコミュニケーションを求め、世界の中でいち早く肉体的に発見し、それをそのまま作品として残した。このメールマガジンを発行しながら、つい最近そのことを再認識し、中上健次のまさにシャーマン的予知能力の凄みを噛みしめていたのでした。

中上健次という、かがやけるマイノリティの星は、その感性自体がハイテクノロジーだった。そして明らかに予言者であり、霊媒者であり、シャーマンだった。

僕はなぜWEBコミュニケーションにおいて、中上健次その人を語ることを否定した人物を無視したのか。それは、すでに中上健次の解釈のベクトルが全く違っているからだ。中上健次は、外へ向けた第3者へのコミュニケーションそのものであり、その人物評価で、物語の構成の評価では完結しない。中上健次は、一つの場所にいる人間がいかにその場所と対話し、さらに他の場所と対話し、自己を更新できるかという可能性そのものを語っていると考える。

中上健次は、もっともっと語っていいと思う。語り尽くして、自分の世界観と比較し、真っ向勝負し、編集し、切り刻めばいい。それだけ無数の解釈できる道を彼は膨大な言葉で編み出した。これだけは中上ファンには賛同を得られるだろう。

今僕たちが一番欲しいのは、自分の場所なのではないか。中上健次はその場所を探すためのベクトルを検索する無数のディレクトリーを僕らに残してくれたと思う。それを再認識し、どこへ行くのかは、今まさにITという打ち震える人々同様、自己の自力にかかっている。それは、結局言葉の力であり、知恵であり、移動する意志であり、他者に立ち向かう勇気だと、僕は思う。

そうして、中上健次の力、結局それは大きな体のデブ力と、それに牛詰めにされた言霊だっと帰結するに至る。
デブ力(ヂカラ)だけは、年嵩が増すと共にそれなり匹敵してきていると自覚するが、自負にはつながらないことは、十分察知している。

☆☆☆

中上健次の影響は、僕のほとんどの文化的視点にはびこっている。

意味不明のフリージャズを聞き、難解なジョルジュ・バタイユを読み、一生読まないだろうジョイスの“フィネガンズ・ウェイク”を本棚に飾り、ジェームズ・ボールドウィンを卒論に書いたのもすべて中上健次の言葉の攻撃のせいだった。

そこまで中上健次を愛し過ぎた僕は、近くまで接近しながらも、どうしても顔を合わす勇気がなかった。新宿の広告代理店に勤めたとき、“働くこと”“酒を飲むこと”という意味で、彼の本拠地にしばらく毎日いられることを本当に幸せに思った。

彼が度々酒を飲む場所を、僕は同じ会社の先輩に聞かされ、そこに通えば遭遇できることを知った。だが、片意地張った田舎者グセが抜けない僕は、頑なにその場所を避けていた。いつか“中上的”に自信がもてる人物になったら、サシで勝負しようと考えていた。だが、世間ズレできず、仕事も下手くそで、ちょいと生意気な知性だけがたった僕には、当然ビジネス社会では伸びることができず、大きな飛躍は巡ってこなかった。

中上健次の死を知ったその日は、残業したあと日課のように酒を飲み続けている平日の夜だった。

酔っぱらって自宅に帰り、寝坊のため朝読まなかった日本経済新聞の片隅にベタ記事を見つけた。ケチな僕は夕刊はとっていなかった。驚いて友人に電話を掛け、新聞の全てを読ませた。いてもたってもいられぬものの酔いのせいでまともが判断ができず、ろれつの回らぬ口調で日経の文化部へ電話した。聞けば、文化部の宿直のような人物は記事をすべて読み上げた。短かった。もっと教えてくれ、どうなっているんだ。これだけなんです。腹が立って電話を切った。詮方ないのでまた日経へ電話をかけた。同じ人物が出た。今度はこちらの意を察知したのか、葬儀と告別式の日程を細かく教えてくれた。だが、サラリーマンで金も時間もない僕には、彼が死んだ新宮市へ行く術はなかった。それよりも勇気がなかった。

東京での告別式が千駄ヶ谷の千日谷会堂で行われた日は、土曜出勤日だった。その日の出勤は同じ世代の女性と二人きりだった。僕は中上健次の死と告別式について話したが、彼女はその存在さえ知らなかった。だが、よくわからないけど行った方がいいよ、という彼女のお気楽な言葉に後押しされ、僕はその場所へ向かったのだった。

その場は、葬儀というならば、その日は不思議な場所だった。

今の近代建築ではない古い千駄ヶ谷の駅を出ると、じりじりと日差しが照りつけ、蝉が鳴いていた。そこからすぐ左の急な坂を下りると、カラスのように人々が普段着でそこら辺に、まさに気ままな姿でたむろしていた。葬儀は公会堂の中で執り行われており、友人の柄谷行人氏がちょうど弔辞を読んでいた。“中上君。今僕は重量をなくした気がする……”そう言い始めたときに僕は境内の一歩手前にいて止まった。

ディパックを背負った同じ世代の女の子が、ボロボロと涙を流し、嗚咽の声を上げて泣いていた。メガネをかけた、タンクトップの女の子だった。その回りにワケのわからぬ作業服然としたオイサンやオバサンたちが、木々の木陰で呆然と葬儀の信仰を見つめていた。正直、かっこう悪い人たちがたくさんいた。地味だった。僕も当然地味で、そこは人気のない動物園のようだった。彼らはやはりカラスのようだった。御霊前を持っていない僕は彼らと一緒に中に入りもせず、一緒にじっと葬儀の進行を見つめていた。この人の結構多くは、中上さんの小説なんて読んじゃいないと思った。けれど中上健次が好きな人たちであることは確かだ。儀式を外から見つめる彼らといることを自分の誉れと勝手に解釈し、僕はそこにいた。ご焼香が始まったあたり、僕はそそくさと会社にもどり、仕事をし、家に帰った。正直、ディパックの女の子にもらい泣きしそうだったからだ。もっと正直にいうと家で、泣いた。

今、中上健次を思うと、彼が世界レベルの故郷として作り上げた路地は小説の中で解体されたとともに、現実に日本のありとらゆる路地は解体されている。同時に路地をなくした僕たちは、WEBというたった一人ぼっちから始まる小世界において、中上のいう路地を復権させようとしているかもしれない。

けれど、確実に現実レベルでのコミュニケーションが壊れている。それはどうしたらいいのだろうか。非力なままのマイノリティとしての課題としたい。

☆☆☆

中上健次の数ある小説の中の一編に妙に感傷的な文章が残されている。

路地の中心的系譜、中本の一統の中に不思議なきらめきをもち孤独に屹立して存在するイクオ、それは中上健次本人の実兄(異父)がモデルとして存在している。

そのイクオが自ら首を括り、縊死する。死を知った無二の朋輩である極道スガタニのトシが、極道らしからぬ様相で血を拭い泣き悲しむ。それは中上健次本人の兄の自決という事実そのものの物語仕様である。

その情景をこの世の外界から見つめるいわば霊媒者の存在としてのトモノオジの心象風景が綴られている。
 
“一緒に酒をつきあうおしもおされもせぬ極道に成長したスガタニのトシですら涙流すのに、種になる前から見守り続けたトモノオジが、何故、涙なしに一滴の酒すら喉にいれられよ。”(小説「奇跡」イクオ外伝、最終部)

お会いしたことのない幻の中上さんを、思うと、この一説を思い出し、殴られようとも若造と罵られようとも、不勉強だと罵倒されよとも、あの酒場へ出入りし、その指の一囓りでもしておけばよかったと、未だにこの季節毎に後悔している。

逢うこともなく失いしデブと一度も酒を酌み交わすこともないままにその姿を追いつづけ、葬儀までその傍らでひっそりと見続けたこの万年美少年が、何故、涙なしに一滴の酒すら喉にいれられよ。

2000.8.11

boxinglee(サカタトシヒデ)

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