イマムラあつしの『流星群』と12月の太素塚

[`yahoo` not found]
[`livedoor` not found]
このエントリーを Google ブックマーク に追加
LINEで送る

ふと、故郷十和田が恋しくなって、

また、12月の太素塚と

ミュージシャンのイマムラあつしくんを思い出して、

動画を撮ってみました。

12月の太素塚とオリオン座の思い出から生まれた

イマムラくんの名曲「流星群」も紹介します。

この曲が発表された後、

イマムラくんは、

様々な心の病を持った方たちを癒すコンサートやライブに

招待されて、演奏するようになります。

※動画には、新渡戸記念館と高見達也さんのFacebook内の写真を使わせていただきました。
予めご了承ください。

★ ★ ★

2004年の冬に差し掛かる頃

ぼくは自分の店の掃除をしながら

イマムラあつしくんに冬の太素塚の思い出を語った

太素塚とは、ぼくが生まれた故郷

青森県十和田市にある不思議な実話と物語をもった森

そこには故郷十和田市が三本木原と呼ばれる原野だった頃

約160年前頃に一人の侍 新渡戸傳が岩手盛岡からやってきて

人とお金を集めて 100年規模の計画を立てて

息子の十次郎と今の十和田市となる町の原型を作ったのだった。

 

その太素塚という森には、

その開拓の先駆者である新渡戸傳氏と十次郎、

さらには、十次郎の子供 新渡戸稲造、

新渡戸家3代の墓碑が祀られている。

ぼくはその高貴なる先駆者を祀る森

太素塚の裏の当時は新興住宅地だった原っぱに

ポツンとある一軒家に生まれ育った。

太素塚の森の入り口は

当時の僻地の町では考えられないくらい

大きな鳥居が立っていた

その鳥居から、森に入り

新渡戸3代の墓を通り抜け、

当時は塀もなかったので

そのまま自分の家につなが小道へ

出て行った。

太素塚は今は塀にと柵に囲まれているので

人口の講演の様を呈しているけれど、

当時は、太素塚裏に住んでいる人は、

自然と太素塚という森を

普通に、動物が森を抜けるように、

自然に、太素塚を抜けて

十和田市の町中に出て

自然に、太素塚の鳥居をくぐり

太素塚の森を抜けて、

家路についたのでした。

イマムラくんに話したのは、

その太素塚にまつわる十和田の開拓の歴史

というよりは、

その太素塚という森とその近辺に住んだり

行き来する人たちの話だった

 

 

太素塚という神聖なる森

そして、静謐なたたずまいの近代建築で建てられた

新渡戸記念館の存在

それに比して、

我が家は全くそうではない

父親は小さな新興の土建屋勤めで

経理と営業と現場管理を兼業していた

朝早くから本当によく働いた

そしてよく酒を飲み、酔っぱらった

平日のほぼ毎日外で酔っぱらい

帰ってくると玄関につっぷして寝ていたりしていた

母親はとても気が強い人だった

というか、今思うに

気が強くないと

当時の母親たちは生きていけなかったのかもしれない

父親が酔っぱらって帰ってくると

家の中では父親と母親がよく怒鳴りあっていた

1番目の姉は夕方から夜

よく外に出ていて

2番目の姉が、よく両親をなだめていた

恐くて布団の中で

ぼくはよく泣いていた

2番目の姉は、ぼくによく気を使い

父親と母親の仲裁に入っていた

いつだったけか、

後、ぼくが大人になってから

母親は、ある夜

父親があまりに遅いので

太素塚の大きな鳥居のところまで

迎えにいったら

鳥居の脇に

父親が寝転がっているのを発見したという

父親を起こし、担いでいこうとしたら

何か変なにおいがしたという

父親は、酔っぱらったまま

太素塚の鳥居の脇で

クソを漏らしていたのだった。

という話を

ぼくは大人になってから

母親から、父親が居間の脇で

酔っぱらって寝っ転がっている時に

聴いたのでした。

寝転がっていた父親は

バツが悪そうに寝たふりをしていました。

で、12月の太素塚の話

小学5年の冬だったはず

ぼくは、4年になってから通い始めた

珠算塾にいくのが嫌になって

毎日、街中のすぎもとショッピングセンターの4階のゲームセンターに通っていた。

珠算をはじめたのは自分の希望だったのだけど

最初っから8級試験を落ちたりと

他の同期の仲間に後れをとり、

だんだんいやになって、

学校から帰ってくると

珠算のカバンを持ち換えて

珠算塾に出かけるふりをして

ゲームセンターに直行していた。

お金はないので、いつも、

入り浸っている中学や、高校生のゲームを

脇でたた見ているだけだった。

 

続きは動画をご覧ください

流星群と12月の太素塚
タイトルとURLをコピーしました