創造、クリエイティブ、と呼ばれるものは、
構想する頭脳と、もう一つ、世界と身体と完成形をつなげるための身体脳が必要である。
10年ほど前、同年代の全く売れない、というか、全く自ら売っていないロックミュージシャンと身体アートについて話していた時に、彼はこんなことを言ってきた。
その時の「頭脳と身体脳」という言葉が、深く心に刻まれたもので、ことあるごとに深く考え、思うことが出てくる。
彼は、ジャズのフリーインプロヴィゼーション、所謂アドリブになぞらえて話したはずだ。
ジャズという音楽は、その発生と在り方と、構成、フォルムを知ってから常に影響を受けてきたアートだ。
面白いことに、ジャズには常に原曲という原題がある。そして、演奏するという意図を持ったときに、その原題、あるいは譜面は壊されてゆく。壊されてゆくことによって、新たなフォルムを吹き返す。中上健次のフレーズで言えば、コードを食い破る。
端的に言えば、彼のいうアートのフォルムにおける頭脳とは譜面であり、身体脳とは、コードを食い破りながらも原曲が意図する世界観を現世、現時点において、あらゆるリスナー、あるいは影響者に最も現代の意図として最大限に響かせるための創意工夫、つまりアレンジである。
高校時代にジャズに遭遇してから、構想と具現化、フォルムと実践、スタンダードとフリーインプロヴァイズ、一見七面倒くさいことを記号と考えるようになったのだが、40代に出会った自ら全く売れずに売っていないロックミュージシャンの「頭脳と身体脳」という記号の対比は、非常にわかりやすかった。
おそらくだが、ぼくは、自分の認識以上に、十和田市という町の成り立ちと構造に、ジャズと同様以上の影響を受けているらしい、というのを、その「頭脳と身体脳」のレトリックを噛み砕くあたりから、認識しはじめたらしい。
頭脳は身体の末端の隅々まで構想した運動の意思を伝達することによって、予め構想された行動の完成形を具現化する。と同時に、身体脳は、頭脳が指示する以前に頭脳の構想したものの完成形の現時点での最高度の達成を目指して、自ずと頭脳の指示以上の行動を前の前の現状と対話しながら、瞬時に具現化してゆく。
十和田市は、実は、その頭脳と身体脳を解読してゆくと、実にわかりやすい。頭脳、身体脳、相互の意思が鼓動している生命体のような構造であると考える。
私は勝手になぞらえていた。
十和田市における頭脳とは、新渡戸傳である。
身体脳とは、土方衆、あるいはそれ以前から土地を耕していたプロフェッショナルな土着民、つまりは我が先祖のことである。
十和田市がブルース、あるいはジャズと同様の構造で出来ている、と、地元の一部の人々に言い放ち、ホンツケナシ(つまりはアホ)、といわれたのは、この意味である。
近年の最大の問題は、身体を知らない頭脳が、身体脳を忘れた有機物を、未来の構想図もなくただひたすら建築土木に奔らせていることに尽きるのだと思う。
頭脳としての新渡戸傳、その身体性を、また勝手に考えてみる。
そして、また、ニール・ヤングの「孤独の旅路」を聴いてみる。
原題は、Heart of Gold。
I want to live, I want to give
I’ve been a miner for a heart of gold.
「十和田ってのは、もしかしたらニューヨーク・マンハッタンと同じでねべが」という妄想は、妙なズレを帯びながらも具現化してしまっていようだ。
新渡戸傳から続くフリーインプロヴィゼーションの血は、なるほど、必然的にアメリカにまで届くわけである。
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