WEBの仕事の整理をしていて、過去のブログを確認していたら、また面白い記事があったので掲載したいと思います。
私がboxinglee’s cafeという不思議な店を経営していた頃に経営不振を乗り切るためか、あるいは本来やりたかった“手前勝手なプロデュース”の発露なのか、短期間の内に実に様々なイベント企画を行っていました。
その中でも極め付けに面白かったのが「新東京歌謡プロレス」でした。
それが生まれた発端と、その後の経緯をまとめたような内容の文章が別のブログの過去ログにありましたので、自分自身の今後のベクトルの再確認のために、ここに再度掲載してゆきたいと思います。
以下の文章は別のフリーブログサイトで当時は「オチボ新聞」という名前でした。
そして、記事のタイトルは、
敬々という人
BOXINGLEE’S CAFEという店を廃業した2006年の冬、
ボクは敬々と、中野サンプラザの前で殴りあった。
もちろん平手だったが。
お互い酔っ払っていて、そして途方に暮れていた。
何度も殴り合い、常日頃ならばそんな遊び半分の勝負を
けしかけるのは自称エセ空手家のボクなのだが、
その夜は、ボクの方から彼に「もうやめよう、痛いよ」
と言った。
40過ぎの大人の僕たち二人は、あまりにもショボくれ、
しくしくと泣き出してしまった。
本当に、悲しく情けない、年の瀬の一夜だった。
ボクが店を廃業してしまってから、
BOXINGLEE’S CAFEでライブをやっていた人たちは、
おそらくそこそこ大切な居場所をなくしてしまい、
皆、どこか途方に暮れていた、
ということはひしひしと感じていた。
なんとも説明しようがない悲しみや、恨みやらを
遠隔的にいつもボクは感じ取っていた。
最近その頃の話をすると、敬々は、
自分たちはどこか傷を負ってしまったのだと思う、
と言った。
そうだと思う。
モノゴトの必然な流れをいうとき、
敬々は大変素直に論じる。
けれど、彼(敬々)が音と言葉で奏でる世界観は、どこか捩れている。
時間が旧いのか、新しいのかわからない。
音がアコースティックでテクノで琵琶法師のようだ。
言葉はときどきフランス語に聞こえる。
それは南部弁も津軽弁もそうだ。
それが面白い。
青森県は、文明化以前から恐山のように
フューチャーでテクノ、なのだということが、
敬々の唄から見えてくる。
その、捩れ、を評しボクは彼のことを
フューチャーテクノフォークシンガー、と呼ぶようになった。
フューチャーテクノを、
敬々は「とんち」というが、
ボクはフューチャーテクノとあえて呼びたい。
(テクノとは、テクノロジーではなく、
「技術」「熟練」「ワザ」である)
2004年の冬のBOXINGLEE’S CAFE、
敬々ともう1人テキサスというブルースハーピストと
真夜中に3人で、様々なことを話していたら、
敬々が突如、
「boxinglee(※)さん、青森県十和田か八戸の間の下田あたりのだだっ広いところで、プロレス興行、やりませんか?」と言って来た。
その瞬間、ボクの頭の中にはさまざまな異種混交な要素が
駆け巡った。
プロレスとバトルとテクノとDJと、
原野のようなひらべった土地で音と肉体がぶつかり合う。
ボクの頭の中でそれは「歌謡プロレス」というコンセプトになった。
ボクと敬々は、さまざま話し合って、
新しいステージの造り方を模索した。
金がないので、どうしようと思ったが、
敬々が、それだけは絶対必要だ、
と固執したので、安い工事現場用の安全ロープを買ってきて
それでリングを作り、プロレス風のステージを作り上げた。
※boxingleeとは当事店主だった頃の私のハンドルネーム
それが、知る人ぞ知る、幻の「新東京歌謡プロレス」になった。
それは一つのはじまりではあったが、
同時に一つの終焉の助走でもあった。
それから、というわけでもなく、
ずっと前から、そして今も、
敬々は、唄を唄って闘っているけど、
彼の前には敵はいないのだ。
百年前と百年後の間を振り子のように
ふらふら彷徨って唄っている、
だから、それはフューチャーテクノフォークシンガー
としかいいようがないのだ。
敬々と初めて会ったのは、
そう、BOXINGLEE’S CAFEが三上寛さんをはじめてブッキングした
翌年の2003年の春先。
ふらりと坊主頭の不思議な風来坊として
BOXINGLEE’S CAFEのカウンターにあらわれた。
その年、まださして仲が良かったわけでもない
敬々を含めた数人と即席の音楽部隊を組んで
十和田marrsさんでライブイベントを決行した。
あの夜は、集客がよくなくてmarrsさんには申し訳ないことをした。
恩返しはしたいのだが、なかなか困難があって。
こんななんやかんやがあって、
十和田のライブが終わって皆でドンちゃん騒ぎして、
ボクの実家に帰って、朝目が覚めたら、
一緒にきたラッパーの射ラップ一郎が、
「誰もいないよぉ」と言って来た。
車で来ていた数人の仲間は
朝一番に出発してしまっていた。
敬々は、居間で1人ごろんと寝ていた。
三人で十和田の駅へいって、
射ラップ一郎を見送り、
敬々は、十和田中央のバスに乗りに歩いていった。
ボクは、それから3年後に貸家に出さざるを得なくなる
実家が恋しくて、用もなくもう一泊して、帰った。
あれから、もう7年。
。。。。
代表曲の「夕焼け市へ行こう」。実は他にはとんでもない捩れた世界の歌が多々あります。それは後ほど。
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