また新たな仕事の仕込がなかなかきつくて、きつくて、と思いながら、一ヵ月半。
そこそこ、なんとかなるもんですね。というような状態。
考えてみれば、人前では器用なふりをして、とんでもない不器用な体質なのは、幼い頃から自覚していた。
自らの身体を使っての表現は得意な方だと思うが、
外界の他者との連携が非常に不器用な体質なのだ。
だから、団体競技が嫌いだし、会社勤めもヘタクソだった。
それでも十年、一つの会社につとめられたのは、広告という予算、企画、制作、実行、評価、
すべてが世に晒される厳しい仕事だったのだが、その根底に
表現、というサブリミナルな、つまりは、己自身で他の誰にもわからぬような仕掛けを仕込める
ゲリラ小爆弾的な可能性があったからだ。
(急に梶井基次郎の「檸檬」という小説を思い出したが、後に、また述べよう)
ともあれ、いろんなことがあって、
とんでもなく腹が立ったのが33歳頃で、
所属していた広告代理店の仕事が、特に自分が担当している仕事が、
社内で最も細かく、小額で、尚且つ請求書の数がバカのように多く、
それを、営業担当のオレがすべて作らねばならず、
なおかつ、何故か、企画書の類の精緻で厳しい文書の作成が多く与えられ、
なおかつオバサンたちを束ねたチームを3つ、4つもち、
営業の得意先周りと、同時に、オバサンたちの小言やグチを聞きながら、
時にワカゾウのように小ばかにされ、しかも、年に何度も飲み会や、小旅行を企画して共にしなければならない、
不器用なだけではなく、青森県出身ということだけで田舎呼ばわりする上司がいたり、
ともあれ、腹がたって、腹がたって、毎日酒ばかり新宿で仕事帰りに居酒屋や立ち飲みバーとかで酒飲んでいたら、毎日、酔っ払っている取締役に、おめえ安酒ばかりのんで、アドマンがそれじゃ、みっともねぇぞ、と言われたり。
まあ、ともあれ、こんなクソ忙しく、酔っ払ってばかりのサラリーマンじゃあ、ダメだな、と思ったのが、その年の8月後半で、
よし、今度の9月1日になったら、何かわかんないけど、
週に3回、必ず30分以上、ランニングする、と決めた。
そして、それをお前自身ができなかったら、お前は一生クズで、青森出身の田舎モノだ。
と決めて、
本当に、週に3回走りはじめた。
ルールは、朝走ってもいいし、夜、酔っ払わないで帰ってきたら、夜走ってもいい。
ともあれ、週に、3回、30分ずつ走ること。
そして、走りはじめ、自分との約束どおり、
酔っ払って帰ってきたら、翌朝早起きして、朝30分走った。
その30分は、5キロになり、
その後、1週間20キロ以上のノルマとなり、
その後、一ヶ月100キロ以上のノルマとなった。
すべて、一ヶ月の中でのノルマなので、いつ、どのようにどのくらい走ってもいいのだ。
ノラリクラリでも、いいし、ダッシュでもいい。
だんだん走れるようになり、
5キロマラソンとか、10キロマラソンとか、ハーフとかマラソン大会に出るようになり、
なんだかんだと、ノラリクラリと走り続け、
1998年は、ニューヨークシティマラソンを走っていた。
で、今また、違った世界ではあるけれど、
同じように走りはじめました。
今後、走る種目は、人生のスタイルとして変わりますが、
マラソンを走るための蓄積の仕方としては、全く同じものになるはずです。
この十年、ずっとおぼろげだった、目標が、まだおぼろげですが、輪郭として見えてきました。
少なくとも、はっきり言えるのは、ぼくは、やはり、本来求め続けた
メディアを発信する人間として、再度、活躍し、お金を稼いでいきます。
そして、ニューヨークシティマラソン、また、走ってみたいな。
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