その日の昼前、保育園の庭で、いつものようにお友達と遊んでいたら、急に、お母ちゃんが現れた。ぼくはその出で立ちに驚いた。
いつもは、庭いじりか畑いじりで真っ黒けのお母ちゃんは、スカート姿だった。
母親との家出は、当時通っていた友愛保育園のからはじまった。
お母ちゃんが、
「オチボ、行ぐよ~」
と叫んで、ぼくを呼び寄せた。
ええっ!
ぼくは、びっくりした。
何にびっくりしたのかと言えば、お母ちゃんが、保育園の午前中に迎えに来ていること。だけではなく、ちょっとよそ行きスカートをはいている。だけではなく、なんと、綺麗な顔立ちで、しかもニコニコと、とてもやさしい顔立ちをしていた。
保育園にいて、急にお父さんやお母さん、家族にお友達の保育園児が連れられるのは、ときどき見たものだけど、だいたいは、昼過ぎだ。
どこかに遊びにいくのかわからないが、お父さんや、お母さん、あるいは年上のお姉ちゃんか、お兄ちゃんに連れられていくのだ。
連れ去られるお友達の園児は、どこか、うれしそうで、優越感のある表情をしている。そして、たいがいそれは、スーツを着ているようなお父さんがいる家族の子供のお友だちだ。
だのに、朝から晩まで作業服着て、帰ってくると即座に丹前姿に着替えて酒飲んでいる、あるいは酔っ払って帰ってくると玄関で倒れている父親がいるような家から通う、ぼくのような子供には、お迎えなんてトンとありはしなかった。
が、その日がとうとう来たのだ。
お母ちゃんは、保育園の先生とかにあいさつして、ぼくを保育園から連れて行った。
ぼくとお母ちゃんは手をつないで、太素塚の裏の家まで歩いていった。
泣げっつだったり、ちょっといたずらをすると、もの凄く怒り、ぶったたたいたりするお母ちゃんだったが、笑顔の時は大好きだった。
しかも、その日は、スカートをはいているのだった。
スカートをはいているお母ちゃんは、またまた大好きだった。
お母ちゃんのフリルのスカートの中に潜り込むのが大好きだったのだ。
お母ちゃんは、ボインで、お尻もでかくてふっくらしていた。ズロースをはいたお母ちゃんのケッツ(お尻)が大好きで、いつも、スカートに入ると、「やめろ^^^^」怒るのだが、その怒り具合がちょっと笑いが入って面白かったのだ。いまでもスカートのなかのズロースケッツをこちょがしたりして、遊んでいると、時に、ブッとヘをたれた。
お母ちゃんのへは、臭かったが、甘い系統のへだった。
後々、標準語ではオナラといい、感じでは、屁、と書くことを知った。
(カンケーねえか)
ともあれ、ぼくとお母ちゃんは、なにやらそそくさと歩き、太素塚裏の平屋の家に着いた。
家に着くや否や、お母ちゃんは、
「オチボ、着替えろ」
と言って、タンスからぼくの服を取り出してきた。
それは、ぼくにとっては、一張羅の一番いい、上下揃った半ズボンだった。
全般的に新しい服や靴下を着たり履いたりして出かける準備をしている中、ぼくはお母ちゃんに、
「どこ行くの?」
ときいた。
「東京」
とお母ちゃんは答えた。
「いつか帰ってくるの」
とぼくはまたきくと、
「ずっと帰ってこない」
とお母ちゃんは答えた。
しばらくすると、八つ上の次女のお姉ちゃんが学校から帰ってきた。
次女のお姉ちゃんは、ぼくとお母ちゃんの身支度を見て、きいてきた。
「どこ行くの?」
即座に、ぼくは、元気に答えた。
「東京」
そして、お母ちゃんのほうをみながら、「ね」、と言ったけど、お母ちゃんは何も言わなかった。
お姉ちゃんは、急に心配そうな顔をしてきいてきた。
「いつ帰ってくるの?」
お母ちゃんは黙っていた。かわりにぼくが、得意そうに答えた。
「ずーーーっと帰ってこないんだよ、ねっ」
お母ちゃんに、確認したが、
お母ちゃんは黙って身支度の作業をつづけていた。
ともあれ、まだじりじりと暑い夏の夕方。
お母ちゃんが呼んだタクシーが家の前について、ぼくとお母ちゃんはそれに乗って、十和田の駅へ向かった。
今思い出しても、あの日の午後のぼくはウキウキだった。だって、東京さいげるんだよ。
テレビで見たビルとか、デパートとかある、東京さ、お母ちゃんといくんだってさ。
覚えていないのが、ぼくと母が太素塚裏の平屋の家を去っていくときの、取り残されたお姉ちゃんのこと。
よく考えてみれば、姉にとっては、それはそれは悲しい出来事だったにちがいない。
おそらくは、呆然とたたずんで、タクシーに乗って去ってゆくぼくと母を見送るしかなかったのだろう。
東京へ行って、ずっと帰ってこない旅。
それは、明らかに家出の家出たる所以だ。
その旅が、家出であったことを理解するまでは、中学の3年の年末に母親が最後の家出をするまで時間がかかった。
ぼくとおかあちゃんの東京への家出の旅がはじまった。
まだ電話がついていなかったような。
お隣りの木工所さんから電話借りたのかな?
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