ジャズ喫茶の王道との遭遇
新宿の広告代理店に入って仕事できたことでラッキーだったのが、(イベント出張で)札幌の幻のジャズ喫茶「Jamaica/ジャマイカ」に行けたことだ。いまだに1989年の写真を見つめ、つくづく本当に幸せだったことを想う。
札幌Jamaicaは跡地の近辺に今、喫茶店兼barとして存続している。だが、違う。ジャズ喫茶ではない。ジャズ喫茶である!と本体は言うだろうが、オレ的には、違う。
スピーカーが知る人ぞ知るJBLのパラゴンである。日本国内に屈指のスピーカーである。当時(1989年)確か国内に5店舗だけに備えられているスピーカーだった。中音域が物凄く伸びに伸びるのである。明確に覚えているのが東京でパラゴンを供えていたジャズ喫茶は中野のビアズレーがあった。(その話はまた後程)
その日もイベントがはねた後の夕方か、あるいは次の日だったか。カメラ持って入るや否やビビっと来た!当時、全国どこへ行っても時間の余裕があれば繁華街に行きジャズ喫茶を探していた。札幌のジャマイカはビリビリに来た!入って店内を眺めまわしているとスタッフの女性と目が合う。こちらが何も言っていないのに物凄く好意的な態度で迎えてくれた。そして、厨房の奥の方にオレを誘い「マスターです」とオーナーを紹介してくれた。奥にマスターらしき方に挨拶すると笑顔で会釈で返してくれた。
最近、「上京」ということの意義や意味を考える。
私が上京して新宿に目指したものは有無を言わさず「JAZZ」である。雑誌やラジオでジャズ喫茶なるものが東京は新宿をコアとしてあり、その流れで五木寛之の「青年は荒野をめざす」を読み、新宿に哲学者のようなラリパッパがジャズ喫茶にたむろしているらしいと聞きかじり、上京して新宿を目指した。
ジャズ喫茶の変遷
20歳で大学を変わり、改めて新宿を目指す。書物や噂に聴いていた学生を中心とした反体制運動の人々は鳴りを潜め、ジャズ喫茶は衰退しつつあった。が、生き残っていたジャズ喫茶に行き、紀伊国屋書店で買った文庫本など読んでいた。新宿では「びざーる」、「ディグ」(
DIG)、「ダグ」(DUG)はまだまだ健在(今でもBAR、一応ジャズ喫茶としてある)。「びざーる」、は、ジョン・コルトレーン派、「ディグ」「ダグ」はマイルス・デヴィス派。何て感じを覚えてきたが、遂に「びざーる」はなくなり、「ディグ」「ダグ」は、系統の店が純(音楽)喫茶からBARへ次第にシフトする。音楽喫茶のモダンジャズは、クロスオーバーからフュージョンが主流となる。
途中、歌舞伎町の「木馬」でウェイターのアルバイトをするが、マスターの選曲が気にくわず、当時テレビの露出が増えてきた矢沢永吉にイカれはじめてモノマネを店内でしていてチーフに怒られるようになる。勤めて2週間後ぐらいに、マスターに呼び出され「態度が悪い」と小言を食らう。腹が立って、その場で辞めた。本当に態度が悪い20歳だった。すみません。その後、20年もたって自分の店をオープンすることとなり、その際「木馬」に罪滅ぼしをすることになる。これは後に述べる。
ともあれ、「札幌ジャマイカ」は思い出の宝物である。
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