大人は判ってくれない

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今年に入って仕事が煩雑すぎるので、

なぜかやたらとテレビを見るようになって、

しかも、特に大相撲の場所がはじまると、毎日定時に必ず見るのですが、

ここ1週間ほどの日馬富士を巡る騒動を見ていて、

なぜか、思い起こしてしまう映画がありまして、

それが、フランソワ・トリフォーの

「大人は判ってくれない」

なのでした。

原題の「Les Quatre Cents Coups」は、
あえて直訳すれば「400回の殴打、打撃」。
フランス語の慣用句「faire les quatre cents coups」
(「無分別、放埓な生活をおくる」といった意味)に由来する。
ウィキペディアより

ということらしいです。

映画が好きで、映画だけに救われた少年が、映画が好きで、映画に救われる少年の映画を作った、というトリフォーのバイオグラフィー的な映画なのですが、ともあれ、なぜか相撲を見て、相撲を取れない力士は今どうしているのか、を思うと、様々な大人に小突かれ、走り、逃げ、汽車に乗り、捕まり、鑑別所から抜けて走り出し、海にたどり着く主人公の少年をふとイメージしたのですが。

相撲という、丸い大きな円の中だったら、張っても、叩いても、転ばしても、ひいては時には肘打ちも許される格闘技が、なぜか、場外の面倒な戦いになるなんて、本来、円の中にこそ生きる場所を見つけた人間が、どうなのか。また、その円の中から弾かれるのはどうなのか。などと、考えていると、ともあれ、トリフォーの「大人は判ってくれない」がイメージ浮かんだわけですが。

本来、自由を求めて、格闘技が生まれ、武道はあるのではないか、というところで、それが円の中に押し込められて、また逸脱して、というようなことを考えていると、やっぱり「大人は判ってくれない」じゃないかな、と大人になりながらも、今更思うわけです。

あまり事細かに、説明すると、ますます大人は判ってくれないので、明日からまた千秋楽まで、夕方、テレビ前にドカッと座って、「稀勢の里、いげーっ!」とでも、叫んで事の成り行きと、己自身が人生の土俵までもいかない円の中で、どう立ち回るかを、考えて見たいと思います。

これ以上、細かにいいたくないのですが、個人的には貴乃花親方は、もっともトリフォー的な気がしています。要するに、ぼくは、貴乃花が好きです。今も。初代(貴ノ花)も、二代目も。

The final sequence of "Les Quatre Cents Coups" ("The 400 Blows") 1959 directed by François Truffaut
そういえば、10年ほど前かな。早稲田松竹に「大人は判ってくれない」を観に行ったとき、開演時間結構ギリギリで、ぼくの前にいた若いアベックが映画館に向かって走っていったなぁ。あの若いアベックそのものが、主人公の少年のようでした。まあ、つらつら、書いているので、読んでいるあなたは、大人なので、判ってくれないかもしれませんが。なんつって。

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