5月から自ら宣言して内勤に籠っていました。
やろうと思っていたことがあった。それは何かというと、自分の人生の仕組み=システムの組み直し、とで言えばいいのかと思う。
最近出会ったある著名な経営者の方が言っていた。
システムとは、考え方、価値観、仕事の仕組みだったりする、
個人でいれば、それは、習慣、と言えるだろう。
自分の習慣を考え直さなくてはならないのだ、と、直観したのだ。
しかし、すぐにはその改善の仕方がわからなかった。
ともあれ、随分長い間やろと思ってやれなかった一つの仕事を、ダメでいいからコツコツやってみようと思ったわけです。
写真は故郷十和田市のありふれた街角の風景
それをやりながら、やはりうまくいかず、日々辟易しながらも、思い出したのが、19歳の頃。
親に内緒で勝手にアルバイトで受験料と入学金を貯め、
勝手に内緒で大学受験し直して、勝手に受かって、勝手に、入学金を渡して、入れてくれと頼んだ、19歳。
結局、大した成果は得られなかったけど、受かるかどうかもわからないし、
受かってからもお金のお問題で入学できるかもわからない大学受験のために、
当時在籍した大学の授業のほとんどを欠席し、日々、大学受験の問題集を1ページずつ大学の図書館で問いでいた、
あの頃のとんでもないのろまの亀のような日々を思い出す。
ここでは、この2か月ほどの歩みを、ただただ、自分の整理のために振り返ってみたい。
靖国神社には、ことあるごとにお参りに行く。
靖国、というとまた面倒臭い奴がしゃしゃり出たりするが、俺は、ただこの場所が好きなだけだ。
ここのデザインがなんちゃらというやつは、では、どんな形で、どんな考え方が好きなのか。
最近、靖国神社に隣接する建物、言わば英霊の博物館といっては失礼にあたるかもしれないが、その建物に行くと、外国からの旅行者を見かけるようになった。
隣の国の方がも来ているのだが、なにを思ってくるのか。
静かにしてくれれば、観光だろうが、なんだろうが、構わない。のだが。
大村益次郎氏の銅像に来ても、実はピンとこない。俺だけではないと思うが、東北の知識人を除いた一般市民は、西の方の人間に比べて、江戸から幕末、明治にかけての歴史に関してのリアル感が薄い人が多い。俺もその一人だ。
いや、しかし、自分の父親の年代は、昭和の戦中派であるので、よりリアルに世界情勢における日本の立場を実感していたのだろう。
その後の高度成長期に甘やかされた俺たちの年代は、当時の世界、そしてアジアにおける日本の立場がどうだったのか、を考えることもなくGHQの仕組みに乗っかって妙な自虐的コンプレックスを精神の底に沁みつけられた。
上京する前は、太平洋戦争(大東亜戦争)で中国に出征した伯父が、ことある毎に戦時中の中国の現地の人たちの話を話してくれた。
母親の本家は姓は「櫻田」というのだが、現地の方たちは「おうでん」さん、と親しんで呼んでくれていたことを話していた。
決して、今の共産党政権下の悪どい人たちの話は出てはこなかった。
それでも、現実はどうかというと、今、観光地に行けば、言っちゃあ悪いが、あまりにもマナーの悪い東洋人の方をたくさん見てしまった。
ともあれ、靖国、というデザインは、精神的にも、その管理においても、世界の中で卓越した聖地でありながら、「公園」でもあると思う。
そして、今も一般の方が寛げる公園としても、整理され直している。
やはり靖国の鳥居はでかいです。
かつては日本一の大きな鳥居だったはず。
伊勢神宮とどちらが大きいのかな。伊勢神宮も素晴らしい場所だった。
あそこの樹木は圧倒的に太くて、驚き、感動した。
伊勢もいい旅でしたね。ここに写真はないけど。
今いる場所の近くに戻って、ぽちぽと散歩するのが井の頭公園。
ここは、昨年久々にかいぼり(池の水を全部抜いて綺麗にすること)して、水がよみがえった。
水面に水草が浮いていた。
俺、20歳の頃から4年ほど近くに住んだけど、こんな生命力あふれる水面見たことないよ、と思った。
あの頃は、よく吉祥寺で酔っ払って、井の頭公園の池に2回ほど、とっぱ落ちちゃったよね。
あと、酔っ払って、間違って俺をボッコボコに殴ったカワシマをここらへんで、ぶん殴り返したよ。
ひどい20代前半だった。バカだった。ほんとに。バカ。
夜の井の頭公園の橋は、ライトアップされるようになってキレイ。
昔、住んでいたころは闇だった。
近くに鳶職の宿舎があって、そこのヤツらと喧嘩して、ぶん殴られたね。
今思えば、いいやつらだった。だって、喧嘩ふっかけたの俺だもん。バカ。
あれは俺が悪い。
西荻窪の富士そばがリニューアルされていて、おそらく10年以上ぶりに食べいったら、確か30年以上前から店長やっている方が、やっぱり店長でやってたんだろうね。
ずっと食べたかった、かつ丼が、おいしい。
富士そばの人は、みんな優しいな。
中も居心地よいレイアウトになっていた。
かつ丼と、わかめ入りのそばつゆ。沁みます。
何せ、何かやるせなくて、朝の6時前だもんね。
こんなことやるのも、今だけだよ。
おっと、靖国のぶっとい鳥居です。
で、富士そばのかつ丼です。これ、つまみにもなります。
一杯やりますか。朝方6時頃から、夕方6時まで。いいよね。そんなの。
新宿。ここに来ると18歳で上京したばかりの頃を毎回思い出す。
なんにもわからずに夢ばっかりだったね。日曜日はホコ天。一世風靡やらが、踊っていたね。ギバちゃんもいたんだろう。
まだ高いビルが少なくて、だいたいのビルが2階か3階。
田舎者の飢えた若者が、埼玉あたりから出てきたねーちゃんに声かけて、お茶おごって、電話番号聞いて、別れたあとに電話すると、
「お客様のおかけになった電話番号は現在。。。。。」
写真がヨコ向きになっているけど、住友とみずほ銀行のビル。確かあの頃は3階だった。
真ん中の狭い路地があって、そこを当時、最も若者に人気だった作家の中上健次が「鋭角的に切り取られた空」と言っていた。
そういえば、店を経営していた頃、ビート詩人のJUNさんとここら辺を歩いたな。その後、俺の事情で喧嘩して別れたけどさ。
ま、俺が悪かったんだよな。俺が。あんたもダメだと思うけどさ。でも、面白かったし、夢があったね。
神楽坂の「福たか」っていう、通、が通う居酒屋に行った。
居酒屋というよりは、質的には小料理屋なのだが。
田舎の十和田市から遊び出張(失礼)で来た和田が、どっか連れてけというので。
俺としては、ここは30代のフリーランスの時代の聖地だ。
ここの飯田橋駅近くの大手の印刷系の編集の会社から仕事をもらって、
ちょっと時間に余裕があるときは、いつも寄っていた。
はじめて入ったとき、今のマスターの先代になる大将がいて、その人が、第一印象から途轍もない頑固者だった。
当時まだ30代中盤だったし、一見さんに手厳しいのだが、
山形出身の大将に、東北人の誇り、なんていうようなことをガナリ立てながら酔っ払って主張していたら、
「面白れぇじゃねえか」ということで気に入られて、その日は最高に楽しかった。
一緒にきたインテリ風の編集者は、まあ受けなかったね。
それから、俺のアジトになった。
その先代の大将、翌週あたり2回目に行ったら、俺のことすっかり忘れてたね。
なわけで、2代目の今の同年代のマスターと仲良しなわけだよ。
静かに飲みたいだけだよ、ここでは。
サラリーマン風な人が多いけど、みな、ここに来ると浄化されるわけだよね。
通、ですよ。
ともあれ、俺は、仕事はいつも一人だし、酒場で仕事の話はしない。
いや、仕事に関わる人の話はしたくない。
ちょっと、話が面倒になったんで、移動。
それから、高円寺のライブハウス「稲生座」へ。
ここは故郷十和田市ゆかりのライブハウスだ。
十和田市にあった最も大きな映画館の子息の柴田さんが、夢をもってここに作ったのだが。
小さなスペースだけど、本当にセンスのいい小劇場であり、酒場だね。
ゆっくりライブを聴きに、また来よう。近いうちに。
ライブされていたミュージシャンの方、お付き合いいありがとうございました。
いられる時間が短かったんでね。今度どこかでまた。
楽しそうに見えるけど、ほとほと、精神的に俺は疲れていたんだね。
だから、家帰ると、ともかく今の時期にやるべきことのルーチンを終えると、ぐったり。
あまりに内向的なので、行こうと思っていた変身忍者のライブに行けなかった。
音楽仲間の敬々から、当日わざわざお誘いが来ても、行けなかった。
疲れていた。残念だった。写真は、変身忍者のサイトからいただいた。
変身忍者は、とても重い病気にかかっていながら命がけで演奏活動をしている。
一人でいたいけれど、癒しも欲しい。酒は飲みたいけれど。誰かに構ってもらいたいけど、ほっといてほしい。
そういう状況なので、今年の2月ぐらいから、時々サイゼリアに行って、ビール、パスタ、赤ワイン、てな感じで時を過ごす。
ここでノートを取り出し、頭の中を整理する。
時々子供の声とかがうるさいが、ヘッドフォンでiPhoneの音楽をBGMにする。
ちょっとした書斎になるんだな。
かつて好きだったジャズ喫茶の簡易版って感じか。何せ安い。で、まずくない。局部的にうまいし。いいところだ。
500ミリのデカンタの赤ワインを2本飲む。
夜も更ける。
気分を整えて、明日は、変身忍者に会いに行く。
江戸川方面の駅に着く。何故か懐かしい気分になる。
のちに変身忍者にも言ったんだけど、東京の下町、荒川の方から千葉にかけては、平地が広がっていて、風がアメリカって気分になるのだ。
また、さらに、空の広がり方や、道の幅が広いところが、どこか、我が故郷の十和田市に似ている。
いや、ほかにも松坂もどうだったか。鹿児島の出水も似ていいる。
「ここではないどこか」という小説があって、後にバンドのグレイも曲のタイトルにするけれど、
あの感覚だね。
最近あまり聴いてないけど、グレイってバンドは、何かいいよね。北海道だったっけ。確か函館だよね、結成が。そか!
ちょっとばかり仕事をさせていただいたモーテルのチェーン店があったけど、あれを創業した社長は、
アメリカのあの地平線の見える道をイメージしながら、アメリカにロードサイドにごく普通にあるインフラとしてのモーテルを日本に
一つの景色として作りたかったんだろうな、などと、また思った。
風景を、走る。
ジャック・ケラワックの小説「路上=on the Road」もそんな風景が連続してあったね。
路上は、読んだな。20代初期。
アルバイトしている居酒屋に旅行中のアメリカ人のアベックが来て、
彼らに「オレ、今、この小説にはまっている」といったら、
「OH! from New York to San Francisco」と呼応してくれたの覚えている。
つまり、常に勝手に解釈するのだが、俺にとってはニューヨークは青森県十和田市で、千葉やその他、何か風が吹くような場所ってのがサンフランシスコなんだな。
変身忍者のいる病院へ。
彼とは店を経営している頃から、様々なセッションがあって、一度距離を置いてしまった。
最初から結論を言えば、お互いに、スタイルもカタチも似ていないが、
きっと似ている。ある星の血液型としては、完全に一致しているのかもしれない。
M78星雲の東三番町32-●(秘密)では、兄弟かもしれない。
マーケティング時代からの俺は、一つの習性として、物事をレトリックとしてパッケージングする癖がある。
彼に「変身忍者」と名付けたのは、まぎれもない自分なのだ。
ネットの向こう側で、日々弱ってきている彼、変身忍者の状況を把握しながら、己は何ができるか、と問い続けてきた。
一年前にちょうど山形県の中心部に住み込んで仕事をしているときにも、
川向こうの山の彼方のあちら側で、何者かが口から火を噴いているようなイメージを見ていた。
20代、大学を卒業した後に、就職と転職に失敗し、
俺は赤阪のTBSのGスタジオにいて、レーザー光線を発射するための水道ホースの配管ができずに、
ディレクターに弁当もらってこいとこき使われていた。
本当は、自分が創出すべき影と光の交錯するファンターな舞台を作るべくして入った会社なのに、
どうにもならずに、仕事が下手な上に、組織の中での立ち回りがどうにもならない。
生意気で済ますのならば、もっと器用だったらいいのに。何をしてもダメ野郎だった。
そこでまた新たな世界を求めて本を読み始めた。
マーケティングというやつだ。そこに現れたのがコンセプトメイクというやつだ。
一つ期生のカテゴリーにあるものが世間的に無価値だとするならば、その器を壊し、別の器に入れる、すると意味も形も変容する。
そいつの手法がコピーライティングであり、コンセプトメイクであり、舞台であればライティングでもある。
そうか、俺は今、レーザーというライティングは合わなかったけど、別のライティングをやってみよう。
光を当てるライティングが、物を書くライティングになった。
俺は作家になりたかったのだ。
作家に今なれなければ、商業という舞台の作家になればいい。
それは、スーツを着たサラリーマンだろうが、物事を変容させる力があれば、それは創造者だ。
俺はクリエイターになる。そしてプランナー=策士になる。
と決めて、レーザーの会社のデスクでも、スタジオでも、広告とマーケティングの本を読み続けた。
その後、新宿の紀伊国屋という本屋のビルの上階にある大きくはないが態度がでかい広告代理店に拾われた。
当時、広告は、ビジネス界においては明らかに虚飾の混じったライトの当たるステージだった。
ビジネスのバックステージでありながら、何故か光の当たる場所でもあった。
俺は、当時日本一大きな本屋のビルに入り込み、読書によって変身したのである。
そんなこんなの欠片を、彼、変身忍者がいる病院のベッドで、俺はブツブツ昔話のように、いや、昔話なのだが、言い続けた。
限られた時間の中、彼に、言葉のボールを数々ぶつけてみた。
それは、かつて、飯のタネにできなかった、舞台美術におけるライティング=照明なのかもしれない。
ちょっとばかり、山形で遭遇した土門拳という、世界に誇る写真家を思い起こした。
土門拳の視線とは、光の当たらない被写体に目線という光を当て、被写体の奥底から浮き出る表情、いや生命とでもいうのだろうか、
そんな浮き出てくる表情の一瞬を写真に刻む、写真家だった。というか、正直まだわかりきっていないけれど。
はじめて山形県の酒田市の郊外にある土門拳美術館を訪れ、大きなパネルに焼き付けられた土門拳の写真の作品群を浴びた時の衝撃は、
ニューヨークのメトロポリタンにもないような、ひたすらライブで生きる、生きる、を写実に光を街づづけて撮る、
驚きを越えた感動の一言でも表せない、情動とでもいうのか、静かに、なのに走っている、鼓動が唸っている、そんな気分を感じてしまった。
上野公園動物園の入り口あたり。かつて娘が小さい頃に一緒に遊んだりした遊園地がなくなっていた。
上野動物園と東京タワーは、俺と母親が家でした時の思い出の場所だ。
いつも怒鳴って、頭、頬っぺた、素手で、箒でぶん殴ってくる母親が仏のようにやさしくて、驚いたのを覚えている。
夜行列車では、言付けだけを残して、去ってきた2番目の姉が恋しくて、寝台車でしくしく泣いていた。
「おねえちゃん、おねえちゃん」といまだに自分の鳴き声をお覚えているのだ。
母親が、車内販売が来ると瓶のジュースを買ってくれた。
それをストローで飲んだら、泣き止んでしまった自分を覚えている。
母親は、そうそう簡単にジュースなど買ってくれる人ではなかった。
実際には、家計も厳しかったんだろう。
朝方、上野に着いたら、母親は、オニババアから仏様に変身していたのだった。
そして、ニコニコ微笑む仏様の母さんと一緒に、上野公園に遊びにいって、
遊園地の乗り物に乗り、アシカかカワウソか覚えてないけど、ドジョウの餌を勝ってあげたのだった。
デロリンマンという、漫画のキャラクターを、なぜか急に思い出した。
昔たまに見た流れ者のようで醜い姿で旅をし、一般人に石を投げられるデロリンマンがそれでも人間の愛を説いたりすると。
背後の高いところから彼を指差し、
「愚か者め」と、わけもなく問いただしてくる謎のキャラクターがいる。
俺は、自分の店をはじめてすぐに亡くなりつつある母親の悲しい姿から、一度逃げた。
もう、二度とおっぱいあげないんだからね。
気になっていたのが、変身忍者が来ていたTシャツだ。
石井聰亙(現 石井 岳龍)監督の映画「爆裂都市」がコラージュされている。
重症患者が、爆裂都市だ。何かの意味か。
だが、敢えて聞かなかった。
「愚か者め」と、あの仮面男の声が聞こえてきそうだ。
この映画に出ている遠藤ミチロウは、当時はバリバリのパンクバンド「スターリン」で、本当にステージから客席に臓物をぶちまけていた。
スターリンの「虫」というレコードを、
大学で出会ったその後もっとも危険なパンクロッカーとして公安に目を付けられたよしあきが、
板橋のボロアパートに持ってきて聞かせてくれた。
「おお!」としか言えなかった。
実は全く興味がわかなかった。
ジャズと浅川マキしか興味なかった。
よしあきに誘われて、早稲田講堂の左翼のロック演奏の集会に行った。
外国人指紋押捺制度反対ギグだった。
そこそこ面白いかも、と見ていたら、クソみたいなバンドがいきなり客席に向かってロケット花火を連射しはじめた。
舞台の袖から、別のバンドの男が出てきて殴りかかっていた。
騒然とする会場を後にして、俺は、外にでてつぶやいた。
「てめえらが、日本の庶民を救えるわけねえよ。だから、ロックはクソなんだよ」
俺は空手もやってたし、どちらかと言えば、右翼だろうね。
よしあきは、左翼運動で、後に、パクられた。
が、その後裁判で勝利した。
二人はその後何回か、劇団を組んで芝居をやった。
そしてサイゼリア
生ビール 飲んでどうなるのか
逃げてきた我が身が 虚しくなるだけ
誰か美味い ビザを食べる
相手 探すのよ
「男はつらいよ」寅次郎相合傘のシーンを思い出した。
寅さんが、浅丘ルリ子演じる流れ者の歌手リリーを想って、おいちゃん、おばちゃんたちの前で一人語るんだよね。
サラリーマンの頃から、ダメになると寅さん見るんだよね。
寅さんいなかったら、死んでた、って人、結構いるかもね。
俺だって、わからんよ。
二人の姉がいるが、どちらも自殺未遂してるし。
母親は、病理妄想で、何度も家でしているし、
5歳の頃の家では母親との道ずれだった。
けっこう毛だらけ、猫灰だらけ、ってね。
リリーの夢を叶えてやるのよ
例えばどこかの一流劇場 なっ 歌舞伎座とか国際劇場とか
そんな所を一日中借り切ってよ
アイツに好きなだけ歌を歌わせてやりてぇのよ
ベルが鳴る 場内がスーッと暗くなるな
皆さま 長らくお待たせをばしました
ただ今より歌姫 リリー松岡ショーの開幕であります
静かに緞帳が上がるよ スポットライトがパァッと当たってね
それでね まっ白なドレスを着たリリーがスゥッと立っている
ありゃ~いい女だよ え それでなくても容子がいいしさ
目だってパチッとしているから派手るんですよ
客席がザワザワザワとしてさ
綺麗ねぇ いい女だなぁ~ あ リリー 待ってました 日本一!
やがてリリーの歌が始まる
♪ひ~とり~さかばで~の~むさ~けは~ ってねぇ
客席はシーンとして水を打ったようだよ みんな聞き入っているからなぁ
お客は泣いていますよ
リリーの歌は哀しいもんねぇ やがて歌が終る
花束 テープ 紙吹雪 わぁ~っと 割れるような拍手喝采だよ
アイツはきっと泣くな あの大きな目に涙がいっぱいたまってよ
いくら気の強いアイツだって きっと泣くよ
まあ、実は次の作品の全体像を考えても、出てこないんで、自動筆記法的な感じで書いているわけです。
自動筆記法、アンドレ・ブルトンだね。
自動筆記法で、本来、ノートにだけ書くべきことを、
ここに書いてみた。
新しい作品を作るために。
最期にゴダールの「気狂いピエロ」見て、今回は終わり。
このブログの書き込みは、時々追加終生が入ります。
書いていくうちに、生まれるんだよ。
そうだ、その感覚を思い出してきた!
何を見たか、海を。
永遠を。
で、何を?