本サイト「人間力マーケット」のテーマ曲「ファイトマネー」について、作者である変身忍者 佐藤豪との秘話をお伝えします
先日、約12年ぶりに変身忍者 佐藤豪の生誕ライブに行き、ステージが跳ねた後、かねて贈るべくして贈ろうと考えていた封筒を渡した。仕事について、プロフェッショナルということについて。己自身が何を持ってプロとなるべきかを考え、行動してきたの一つの帰結として。
変身忍者 佐藤豪が、既に自身のブログでも言っちゃっているんで、ここで、ぬけぬけと述べる。
中には、現金を入れた
別に内容を明かすために渡したわけでもないし、後々のドラマを考えたわけでもない。
ただ、一年半程のほとんど過ごした山形の山奥の仕事場で、山々に囲まれながら、離れてしまった東京という都会、とともに、さらに離れてしまった過去の仕事の場面の数々を思い返していた。
思い返し、流れてしまった月日を感じながらも、今一度、自分自身のやるべき仕事、やりたかった仕事、について、山の風景とたなびく風に、かつて見たこともない途轍もなく大きくうねり怪物のように流れる最上川を見ながら、考えに、考えていた。
そして、自分がかつて経営していた店に携わった関係者の数名には、できれば、現金を渡したいと考えた。
できれば、一人このくらい。と、考えていたのだが。
0の数は、最低このくらい、と。
山奥の中では、全くお金を使わなかったので、余裕があったんだけど。
額面は、さておいて。
自分がやってきた広告関連の企画や制作、コピーライティング。
当時は紙のグラフィックが中心で、印刷は4色の刷版でできていた。
デザインは、まずデザイナーがラフの絵を起こし、コピーを入れ、クライアントと折衝し、完成のイメージを練り上げてゆく。そして、制作がはじまる。コンセプトを決めるのはオレ、そして、コピーライターと共同でイメージを作る。時に、コピーは自分で書いてしまう。デザイナーが絵を書き、そして、張り合わせて版下という印刷の土台をつくる。その土台に、活版文字を入れて、フィルムに写し4色のフィルムが出来上がる。
その制作の途中で、何度も何度も、クライアントのチェックも入れて構成する。数回、あるいは、時にはやり直しになるほどの訂正が入りながらも、ポスターかチラシか、ともあれ世の中に広告として露出するゴールを目指して、何度も何度も修正作業が繰り返される。そして、ようやく刷版が完成すると、試し刷りをする。アート紙、コート紙か、マット紙か、厚味は138キロでいいのか。そんなようなテスト、テスト、テストを繰り返し、一枚のポスターやチラシができあがる。
ポスターは堂々と、店頭に張られ、チラシは、人の手で配られる。
そして、
主役となる商品が認知され、スポットライトが当たり、スーパー、百貨店、ドラッグストアで、お客様の手に渡り、家庭へ、オフィスへ、全国へ、世界へ、踊りだす。
二十代末、はじめて、著名なメーカーの新商品発売というとんでもなく未知で大きな舞台の袖でステージを作るという感触と、その喜びを実感した。
担当した新商品発売の直後、新商品の出荷が頗る順調という知らせを聞いて、小躍りした。
喋りや表現が粗くてヘタクソで、度々クレーム(というか小言)よこす同年代のクライアント担当の所を訪ねると、
「ごめん、ごめん、今、商品の出荷が予想以上で忙しいんだよ~。またね。」
と、そっけなくあしらわれながら、
慌しい後姿が振り向いて、
「今回、いろいろありがとね。ヒットするよ。落ち着いたら、飲もね」
なんて、言われた時のよろこびが忘れられなくて、会社勤め、いや、団体行動がヘタクソな自分が、十年同じ職場で同じクライアントの仕事を続けられた。
それから、広告の仕事で最も幸運だったのが、何でもやらされる立場というかクライアントの担当が多かったので、バブル前後の当時、博覧会、内見会、シンポジウム等のイベントの仕事も多々回ってきて、プロデュースはもちろん、司会やら、舞台袖の何でも屋やら、ともあれ、イベントの袖を見ることが多かった。
そして、報酬が、それも大手にとっちゃあ大したことないけど、当時の自分にとっちゃあ、そこそこの報酬をもらえた。
その報酬と、当日の仕事で学んだ記憶を元に、フリーランスでプランナーをはじめ、そして、良し悪しは別に、荻窪にライブスペースのある酒場boxinglee’s cafeを立ち上げることができた。
後々にも詳しく述べるが、当初からライブハウスとして発足したわけではない。
boxinglee’s cafeのコンセプトは昭和の街角を再現する「劇場」としての酒場空間、だった。
通称名としては、出入りするアーティストが大きくDJ系と、ステージミュージシャンに分かれており、
当初DJだらけの頃は「荻リー」と呼ばれていた。おそらく、当時2000年前後のDJが通うクラブハウスの中心が渋谷であったため、荻窪にDJバーがあるのが珍しかったからだと考えられる。
そして、変身忍者 佐藤豪と出合った頃は、ステージミュージシャン系は、「ボクリー」と呼んでいた。※で、今は、ボクリーだろうが、荻リーだろうが、ボクシングリーだろうが、なんでもいいです。
底辺に「FREE」というコンセプトも備わっていますわけで。
短命だったが、客足も少なく、クセの強かったboxinglee’s cafeだが、
5年半という少ない間に、ライブ、演劇、DJ(クラブイベント)、アングラ、宗教(仏教、キリスト経、ヒンズー経)様々なジャンルの表現者が出入りし、店主でマネジメントのすべてをやらざるをえなかった自分も、超密度の濃い日々を過ごしていた。
後半は、何かが足らん、何かが!と思いながら、クラブイベント意外伸びきらない売上を上げることと、店のブランドの認知を拡げる意図もあり、店の自主企画を次々と立ち上げていった。
それでも、売上が伸びない。
店発足当初から、実は売上を支えていたのは、渋谷からあぶれたDJたちが集まる金、土、週末のオールナイトのクラブイベントだった。
通常のライブイベントが終わって11時過ぎ、ミュージシャンやライブのお客を詫びながら追い出し、クラブイベントの客を50~60人迎える。あとは、音量やら機材の利用方法の約束ごとの確認を終えれば、若いバイトのお嬢さんと一緒に朝までジントニック、ハイボール、スクリュードライバーのカクテルを作りに作り続ける。
それを月に4週4回以上やれば、店の営業費も、生活費も十分まかなえたのだが。
徐々に、クラブブームは去っていった頃、
店のオリジナル・オープンライブ企画「街角オープンSTUDIO」とに、当時まだ豆腐屋の会社を退社したばかりのスーツ姿の佐藤豪、後の変身忍者 佐藤豪が現れたのだった。
その後のboxinglee’s cafeを支えるような立場になった変身忍者 佐藤豪との空白の12年間。
いや、それよりも、彼が、その当時、何をし、それから、何をしてきたのか。
変身忍者 佐藤豪への感謝とねぎらいを表現するには、何を伝えればいいのか。
その帰結が「ファイトマネー」だった。
変身忍者 佐藤豪 極秘新曲「ファイトマネー」 限定公開!
そういうわけで、パンク漫画アーティスト 変身忍者 佐藤豪は、ファイトマネーをテーマに、「ファイトマネー」という曲を作った。
おそらく思い立って一日で曲と漫画を書き上げた。その走るスピード感と語感を堪能して欲しい。
無論、即席なのでデモ版ではあるが、彼が漫画で書き上げたインスピレーションの状況を、
10秒ほど↓下記の絵を見てから、そのままタップ&クリックしてほしい。
ジャーーーーン、と、はじまるよ。
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