新宿の西口で哲学の講座に参加してから、東口に回り紀伊国屋書店に行ってきた。
講座は、カントの批判哲学について。うむ、よくわからないが、面白かった。
新宿に来るたびに、自分のいるべき“場所”について考えます。
さて、紀伊国屋ビルに着て見ると、驚くべきことに、ここの2階の売り場にカウンターとイスが置かれて、しかも、スマホやタブレット用のコンセントまで無料である。
ありがたや、買い換えて一年たったiphoneの電池の消耗が早くて、からからだったのだ。
コンセントにACアダプターを指して、しばし、窓の外を眺める。
仕事や人と会いに新宿に来るたびに、殆ど必ずこの紀伊国屋ビルに寄ってしまうのだ。
ほっとするのだが、さらに、イスに座れるなんて、さらに、ほ。
紀伊国屋ビルには、10年間程お世話になった。
20代後半から30代後半まで、7階と8階にある小さな広告代理店に勤めていたのだ。
窓からの景色は随分と変わった
ぼくがここに通っていた頃、向いの角はタバコ屋で、その隣りはシューマイ屋だった。
仕事でつまらないことがあっても、窓の外から見渡す街の景色が好きだった。
思い起こせば、この紀伊国屋ビル全体が、自分の図書館だった。
最上階の会社のオフィスで打ち合わせをし、新しい仕事が入れば、まずは、階段を下りて3階のマーケティングの売り場の棚を眺める。
本を買うときもあれば、立ち読みだけで、企画がひらめいたらまた上に上り、企画書を書きはじめる。
3回から最上階に上るには、エレベーターがいつも混んでいるので、階段で地下1階まで降りてから、エレベーターに乗り込む。
途中の2階の文庫売り場にちょいと寄り道する。
顔見知りのエレベーターガールがいて、いろんなあだ名をわれわれはつけていたなぁ、などと思い出していた。
まあ、向こうもこちらや、紀伊国屋のスタッフなんかに何かあだ名つけていたんだろうな。
などと。
一般客とビジネス層が同乗するエレベーターでは、様々な文化人や著名人に遭遇した。一番驚いたのが、お勤め帰りの角川春樹氏と、大霊界の丹波哲郎氏。
20代の彷徨
思い起こせば大学卒業してからの20代、セミナー企画会社勤めを辞めて、ワープロ会社でのキーパンチャーのアルバイトした後、レーザー光線の会社に潜り込んでTBSのGスタの現場に、ほぼ毎週木曜に詰めていた。当時の高視聴率を誇る歌謡番組「ザ・ベストテン」の生放送で、光ゲンジや小泉今日子の大和ナデシコ七変化。もちろんレーザー光線の発射による演出だったのだが、ぼくが担当するのは水冷式の機材を冷却するための水道のホース引きだった。
どうにも現場と自分が合わずに、こっそり現場やスタジオ脇で広告やマーケティングの本を読んで勉強していて、何とか自分に合った“ものづくり”ができる会社に入ろうと、いろんなところに面接にいって、転がりこめたのが紀伊国屋ビルの広告代理店だった。
採用通知の電話を受けたときの喜びは、本当に忘れられない。
あの喜びって、おそらく、広告業界に潜り込めた喜びよりも、
日本一の本屋の上にある会社に勤められる
ってことだったのだと思う。
考えてみれば、当時、食品のマーケティングに特化し、コンサルティングも売り物にしながらも、ちっぽけな会社だったけど、働いている先輩方は妙にプライドが高かった。それはバブルへ突入する時代性や広告業が当時の花形産業だっただけではなく、やはり紀伊国屋ビルという場所のパワーではなかったか。
その土地、その場所に生きることの価値
確か新宿も、新しい宿場として一度栄えながら幕府によって廃止されながらも、志ある人たちによって時を経て再会されたという歴史がある。
そして、新宿は、やはりぼくが遊び飲んだくれていた時代から、やはりどんどん変わり、知っている店もほとんどなくなった。さらには、1960年代に徘徊していた先輩方には、運動だったり、左翼だったり、その後は、歩行者天国、今はビックロ。
50代の同年代が、昔はさ~、を話すような年代に入ってきた。想い出を語るなら、さらにもう一歩昔に戻ってみようかな。
思い出だけを語るなかれ。歴史を語れ。
などと呟いているうちに、そこそこ充電されたので、ソケットをはずして、自分の生まれた土地の歴史を語ってみたいと思います。
ありがとう、新宿。
ありがとう、紀伊国屋。
何やら、我が魂にパワーがチャージされたようです。
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