私の父親である丑松が亡くなる前の年の2001年11月、十和田湖に一緒に行った。その年の3月に母親、ゆきゑが亡くなった。見届け、葬儀が済み、四十九日が済み、その年の夏の盆頃には直腸がんが早期発見されるが、本人は鉄人のように元気でぶっ飛ばすように手術を受け、ますます元気で、もう一丁嫁などもらってやると言い放ち、酒をガブ飲みし、子供たちを困惑させるが、その晩秋は、一気に違う世界に入っていた。金を借りに行った私は、おくびにもそんなことはいうこともできず、ただ、かつて見たこともない頑固一徹人生に一度も弱音を吐くことのなかった父親の背中の憂愁に驚き、黙って五歳の頃の息子のようについてゆくしかなかった。ちょっと待ってけろ、って感じで。父親は、もはや子供やら過去のことやらを考え、反省し、回顧する、というような思いのかけらもなかった。ただおぼろげな輝ける未来を夢うつつのように見ていた。のだったのだろうと思う。意味がわからずに直進する、男、丑松の後姿を追いかけるしかなかった。十和田湖は、寒かった。黙って自分で生きよ、というように、どんどん遠くに去っていった。
2011年6月13日Facebookに掲載