LGBT問題は単に多様性の容認ではない: ボールドウィン「もう一つの国」から読み取ったもの

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ボールドウィンの「もう一つの国」を底本に1987年に演劇化した「ルーファスの友だち」の公演楽屋。

LGBTの問題が話題になっていて、思い起こすのが、20歳前後に読みふけっていたアメリカ文学です。あらためて自分の選んだ学問を考えると、運命的な偶然のようなものを感じます。私は主にアメリカの黒人文学を学んでいました。今となっては疑問符がつくかもしれませんが、実は1960年代から80年代にかけて、このテーマは確実に存在していました。

私の卒論はジェームズ・ボールドウィンの「もう一つの国」でした。

小さい頃から、周りの人々の「違い」について考えることが多かったです。特に、近隣の市町村の中の三沢市に米軍基地があったことも影響していたのかもしれません。あるいは5歳の頃、母と東京に家出して、しばらく住んでいたことも影響しているかもしれません。

さまざまな「違い」、方言と東京弁、日本語とアメリカ英語、さまざまな人々の存在。お金持ち、普通の人、背広を着た人、農作業をする人、他多様な人々がまわりにいた。普通かもしれないが、とても気になっていた。

 

そしてアメリカが交錯する。アメリカ、アメリカ、アメリカ。

 

なぜだろう、どうしてだろう。国は別でも、中学生当時は、皆、アメリカを意識していました。特に高校時代には、三沢基地の存在と同時に、イギリスからろっくバンド・クイーンが台頭していました。フレディ・マーキュリーの存在は不思議でしたが、同時に魅力的でもありました。中学の頃には、モントリオールオリンピックでカナダの妖精コマネチが注目されました。彼女は女性としても美しかったが、明らかにブルース・リーに並列するフィジカル・アーティストとしての魅力を感じました。ブルース・リーは香港。コマネチはルーマニア。そしてアメリカが交錯する。

18歳の時、上京して大学に進学しました。事情あり、英文学ではなく、アメリカ文学を学びたくて、金を貯めて親に頼み、2つの大学に通いました。そして、私の研究の対象はジェームズ・ボールドウィンでした。その間にジャズにも夢中になり、ジョン・コルトレーンやアルバート・アイラーの音楽に心酔しました。また、空手やキックボクシングをスポーツとして楽しんでいましたが、それもまたアメリカ文学と関連していたのです。

なんだかもう一度、また同じことが起こっているような気がしています。「もう一つの国」を思い出します。ボールドウィンが先駆的だったと言えるでしょうが、彼の作品は固定観念にとらわれたものではありません。生きること、愛すること、家族、恋人、それぞれの関係性において、拭い去ることのできない一般常識からかけ離れた想いや愛が描かれていました。

ボールドウィンの作品はLGBTの問題の要素も、あることはありました。しかし、ボールドウィンはそれを単なるステレオタイプな物語にはしませんでした。彼の作品は、個々の人間の生きることや愛すること、家族や恋人との関係性に焦点を当て、その中で多様性や異なる形の愛が絡み合っていました。

なぜ私がお金と若さと体力をかけてアメリカの文学、文化に心酔したのか、今再び考えてみたいと思います。それは単なる「そうじゃないんだよ」という叫びではない。

ボールドウィンの「もう一つの国」のエンディングにこんなセリフがあったはず。

「黒にもさまざまな色の黒があり、白にもさまざまな白がある」

正式には後に調べよう。ともあれ複雑な人間関係に自ら取り込まれてしまった主人公の一人、白人青年のヴィヴァルドがふと発見したのだった。晴れる瞬間だった。褐色のコーヒーを飲む前に、見つめる瞬間。もう一つの国。

アメリカを意識したのは、自分の生まれた場所からでもあった。
太素塚という森とそれに対峙する寺院、それが交差して形作られる碁盤目の街。
それと類似するはずだと、ニューヨークの街に行き、ぶらぶら歩いた。

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