敬愛なるブルースの力

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正月も終わった。

昨年末のヘビーな旅の仕事がひと段落して、東京に戻り、また明日から出かけなければならない。

体力的にも、精神的にも移動しながらの仕事は疲れる。これほどに移動する仕事は、過去にはなかった。

年末年始を報告します。




東京十和田会へ参加できた

故郷の十和田には実家もないので、帰ることもない。だが幸いなことに、東京在住の同郷の方々が集う「東京十和田会」の理事会の新年会に今年も参加することができた。

この会は発足して35年が過ぎている。よって年配の方が多い。今、東京在住の地方の若者は、過去に比べて交通手段も早く、またインターネット、SNSを駆使して、いとも間単に同郷人とつながることができる。

だが、この会に集う方々は割合年配で、インターネットはあまりやらないし、スマホの保持率も低い。なにせ彼らが上京した頃は、上京するには主な交通手段は真夜中の十数時間の夜行列車が普通だったし、公衆電話は10円玉だった。そして、年配であるが故に、ほとんどの方は、現在は故郷に実家はない場合が多く、中には幾年も故郷の地を踏まぬまま、故郷に恋焦がれる壮年を堪能する方々もいる。

移動すること、意思疎通すること、外界との交通は非常に多難である。がゆえに、出会えたときの喜びはひとしお。古臭い記憶は、このように貴重な感覚を思い起こさせる。

新渡戸記念館の廃舘問題

参加する年配の方々の話の一コマに、今現在も続いている十和田市と新渡戸記念館の係争の問題があった。大きな声で叫んでいた。というか、なぜか自分も含めて、年食う毎に、酔っ払った時の声が大きい。対話するお一方は、ぼくも一度深く話を聞いた方で、実際に太素塚で新渡戸稲造氏の最期の講演を聴いた方だ。本業は獣医であることから、ぼくたちは、佐川先生、と呼んでいる。

話の内容は、外郭からすれば、こんなことだ。

新渡戸記念館と十和田市の係争

新渡戸記念館が耐震の問題で取り壊しを市が決定したことに対して、裁判が行われているという。市の方の問題もいろいろあるし、記念館を守る新渡戸家にもいろいろ事情がある。そして、記念館が立地する太素塚は新渡戸家の土地であるものの、建物自体は市が建立したものである。その建立、という意味はもっと深いのだが。そして、建物の中にある資料や展示物の保存がどうした、こうしたの話題が出てくる。それはどこかの新聞か、口伝えかによる情報であって、真実がどこにあるのかは話題とはならない。

その有象無象の対話の中で、佐川先生の最終的な態度は明確なものだった。新渡戸記念館とその前身の新渡戸文庫の成り立ち、十和田市の開祖である新渡戸傳(つとう)から、子息の十次郎氏、孫にあたる新渡戸稲造氏、十和田市の開拓の歴史を基盤としながら世界的なスケールで活躍したその構成を延々と述べ、帰結は、

「ともかく、わたしは新渡戸稲造先生を尊敬してる」

である。

その言葉と口調と態度、目線の力強さは、他を寄せ付けない真摯なものだった。

直線的に触れもしなかった新渡戸記念館の廃館問題だが、それは、建物の老朽化や、設計した建築家のデザインに込めた意思、その他、物理的な問題だけではないはずである。ひとえに今の十和田市民が、市外に在住するすべての十和田市民が、十和田市、本来は三本木原を開拓したという現在進行形で継続する開拓の史実を、そして人物を尊敬しているか、が問題なのだ。つまりは、愛、の問題だと思う。ぼくは思うに、それは、尊敬できるか、さらには、尊敬する背景を理解しているか、というレベルの問題だと思う。それは、愛、以前の、教養、の問題だ。

もし、口先で、尊敬しています、というならば、本来、地震の故郷の祖先の墓というべき太素塚の新渡戸記念館を、まずは立て壊すというとは、どういうことかと類推するべきである。そもそも、自分の家の墓を地震で壊れそうだからまずはぶち壊す、といわれた親族が抗わずにいられようか。抗わずに、他人の家の噂話としてやりすごしてしまうのも致し方ない。それは、根っこを忘れたか、根付いていない、ということになると思う。

根っこの問題だ、とつくづく思う。
根っこ、つまりは、ルーツ、ブルース、ですね。
十和田には、ブルースが必要です。

正直なところ、十和田市の悪口をめちゃくちゃいうと、
十和田市のいいところが見えてくると思っています。

ブルース=コード(定型)です。

つまりは、十和田市には、定型が不足しているのです。




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