広告代理店勤めをしていた二十代の末期、会社の先輩のセコチンのマンションで、土曜日の半ドン明けの午後、ビデオで観たんだが、映画の終わりのエンディングで、あまりに深く感動してしまって、そそくさと新中野のその場所から立ち去ったのを覚えている。
映画「どついたるねん」が好きで、いまでも時折こっそりと観てる。
セコチンがゴージャスなマンションで、ぼくが6畳一間台所3畳トイレ付き、自家製のシャワールームこさえて、家庭用の排水ポンプで排水して銭湯代を浮かしていた頃だ。もうすぐ30歳で収入も安定したのに、東高円寺のそのアパートを出られなかったのは、根っからの貧乏性だったのか。
ビデオで観た映画「どついたるねん」の原田芳雄はボクシングのトレーナー。かつて日本チャンピオンだった。奇跡のカムバックを果たすボクサーアダチこと赤井英和が、致命的な脳の怪我を克服して試合に臨む直前に、原田は赤井英和と本気のスパーリングを余儀なくされて、かつての強腕を瞬時に蘇らせ赤井の顔面を強烈にヒットする。一瞬ダウンしそうな赤井をクリンチ、いや抱きしめて、原田は耳元で、強く、どもりながら囁く。
「キミの死ぬところは、こんな淋しいところじゃない」
そこは、昭和の匂いがしみこんだ木造のオンボロボクシングジムの小さなリングだった。
名前は外の看板が赤裸々に記す「明るいナショナルジム」。
二十代から、いや生まれて物心ついた5歳、太素塚の裏で生まれ太素塚の近くの太素湯(現みちのく温泉)で、世界初で放送された「ウルトラマン」(モノクロ)観てから、どこかにスポットライトが当たる場所を探していたぼくは、新宿と高円寺を行き来しながら、いつしか遭遇するだろう栄光を夢見ながらも、ネオン輝く歌舞伎町を後にして、場末のいっぱい飲み屋で、スーツのネクタイを煮込みの汁で汚しながら、クダを巻いていた。それが我が二十代。バブルなんて、向こうの築地、銀座の話。新宿の東口、アルタ裏、紀伊国屋裏は、なにか故郷十和田三本木のように雑居していた。
先日の5月3日に我が故郷十和田に行き、4日、5日と、新渡戸稲造の記念墓碑のある太素塚の祭り、太素祭で、遊びながら働いた。
そこは北、そこは森、そこは墓であり、そこは公園である。
その土地の開拓の祖、新渡戸傳とその子息十次郎を祭るのだが、そこに新渡戸稲造自らの意思で立てられた墓碑がある。
世界を駆け抜けた才人、武士道の著者、教育の達人が、老齢ながら最後の仕事で海を渡り、客死する。
仮に稲造がボクサーとするならば、彼のトレーナーはなんというのか。
「キミの眠るところは、こんな淋しいところじゃない」
いや、そうではない。
ぼくには二十代から確実に描いていた、妄想していた十和田のイメージがある。
三本木ヶ原、それそのものがリングだ。
徒手空拳、パンツ一丁で屹立するボクサーの国だ。
ヤジは飛ぶ、ツバも飛ぶ、馬喰宿に女郎屋、銭も回るし、酒も回る、酔っ払いも、やくざもいる。
都市計画も未来地図も、新渡戸傳からの挑戦状だ。
太素祭160周年、そろそろ新しい試合開始のゴングが鳴る気配。
試合は160年前に、ブッキングされていたわけだ。
それは、あまりにしたたかでゴージャスな未来計画だ。
そろそろ、どついたるねん。
(ぷたらぐど)
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