オレが生まれ育った、青森県十和田市太素塚の裏の一角は、当時新興住宅地で、新参者の家ばかりだった。
オレの父親は、十和田市から十和田湖に通じる道の芦澤という部落(青森県では普通に部落という)の出身だった。
無論だが、別に裕福な家でもなんでもなく、父親は小学生の高等科までで、その上までにはいけず、働き始めた。同級生に母親の本家の叔父がいるが、その叔父が中学に通っている姿を羨ましく思いながら、農協や、銀行で働き、そして、新興の土建会社に出会い、そこで、勤め上げた。
その父親は、ただの末っ子だったので、別に金も何も無かった。が、今思えば、今時分の自分自身が恥ずかしいくらい、負けない心を持っていた。
そして、土建会社に勤めながら、ガソリン関係の投資でちょいと一山あてて、太素塚裏に土地と家を買った。そんなわけで、太素塚裏は、新興住宅地だった。
ともあれ、それから、時がたち、
青森県十和田市の新渡戸稲造の記念館がある、太素塚という森の裏で生まれ育った俺は、40歳を超えたあたりで、北海道生まれのまんが家を目指して、何故かパンクロックをやっている佐藤豪という妙に器用すぎる男とであった。
その場所は、荻窪、オレが5年半ほど経営した、boxinglee’s cafeという、不可思議なライブ劇場酒場だった。
人呼んで、吹き溜まりのバー。
佐藤豪は、おそらく、出入りする中で、最も、居心地良くすごしてくれた、だろうと、今更ながら、思う。
共通点は、北。
つまりは、出身地、東北、北海道。
北、だ!
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