再度言う。
青森県十和田市の太素塚に墓碑と自らの書庫・新渡戸文庫を前身とする新渡戸記念館を残した、世界的書籍「武士道 BUSHIDO:The soul of Japan」(原文英語)の著者 新渡戸稲造がである。
その、
新渡戸稲造が幼少の頃、ダイナマイトを自ら製造し、爆破させたという事実を、キミは知っているか。
話はかわって、稲造がダイナマイトを作った頃と同時期の幼少期のぼくの話だ。
太素塚の裏に暮らしていたぼくの父親は、土建会社にずっと勤めていた。
ものごころ付いた頃は、毎朝朝一番の5時に家からバイクのスーパーカブで数分の稲荷神社近くの会社の車庫の鍵を開けに行き、それから6時ぐらいに帰ってきて、朝飯を食べてから、新たに出勤するという日課だった。
よって、ぼくの記憶の太素塚裏の朝は、父親のスーパーカブのエンジン音ではじまる。
後々父親の肩書きというか、役職は何か、と質問してみたら、明確な答えもなく、営業というか経理というか現場監督というか、つまり、何でもやっていたらしい。
何せ、会社の事務所には、父親と美人の事務員のエミちゃんの二人しかいなかった。
他の社員というか従業員は、全部、現場の方々だった。
世間は、当時のマスコミ的には、そういう方々を、土方、と当時やや蔑んだ言い方で行っていたが、とんでもない。凄い人たちがいろいろいた。
中の一人は、父親を一瞬の間だけ空手家にしてしまった。この話は、後に。細かには、また出てくるだろう。
その所謂昭和40年前半の高度成長期の頃の土方の方々は、営業兼経理兼現場監督兼雑用、つまりや何でもやるオフィス勤務の父親の呼びかけで、仕事が空けた夕方に、よく太素塚裏の我が家に集まって、酒を喰らっていた。
夏の蚊の飛び交う時期以外は、テラスに七輪出して、バラ焼きなんか焼いて、日本酒をグイグイやっていた。
父親は、背丈は大きい方ではない、というか、チビの方だと思うのだが、息子であるぼくと全く違い、グデングデンの酔っ払いになる前に全くの素面では、経理も、論理も、話の口先も立ち、現場の皆さんの所謂「会社・本部への不満」をことごとく論理で打ち負かしていた。
「オメが、これだば、アレだば、コレだべ」
と父親がたしなめる。すると、
「いや、はは、ウスマズさん、参りましたじゃ~」
と、現場のお父さんはお手上げ、降参する。
「ま~、飲めじゃ~~~」
「いや、はああああ」
一升瓶が傾けられ、トクトクとコップ(グラスじゃあねえよ)さ、酒っこが注がれる。
その後、父親も、土方衆のおじさんたちも、ドロドロになる。
強烈カミナリかっちゃの母さんが、おでましして、難無くお開き。
家で酔っ払うのは、外からタクシー帰りよりも遥かに、ラクだった、だろうね。
ダイナマイトの現物を見た日
でともあれ、我が家は常に、
土方衆のオジサンと七輪と一升瓶とバラ焼きと、
なんだかわかんない屁理屈と、父親の無理矢理クダリの結論付けで、そ
う、つまりは太素塚の夜はそのように更けていった。
で、小学高学年の頃だったと思う。
父親がある日、自分の勤め先の土建会社の事務所に用があって、ぼくを車で連れて行った。
で、一仕事終わると、急に、ちょいと得意そうに言ってきた。
「おい、ハッパ見せでやるが」
「ハッパって、何?」
「ダイナマイトよ」
え!! ダイナマイト!!!
その後、ぼくはこっそり、事務所の奥の非常に深い倉庫のようなところに連れられて、ダイナマイトを父親に見せられた。
「これ、火つければ、大変だよね」
ぼくは言った。
「ボガーーーーーーーーン、よ」
父親は、やはり得意そうな雰囲気だった。
よくわからない、が、その時の感覚は、
「土方、って、かっちょいいじゃん」(現代の東京語です)
何か、プロの仕事師くさい、父親が、急にかっこよく見えた。
ボガーーーーーーん、よ。
で、新渡戸稲造がダイナマイトがどうしたって?
ともあれ、ダイナマイトを自ら製造し、爆破させたという事実を、キミは知っているか。
って、ことだよ。
本当かよ!!
本当だよ!!
もうちょい、詳しいことは、また書くけど、まずは、
新渡戸稲造とダイナマイトの物語は、
青森県 十和田市新渡戸記念館の学芸員 角田女史に聞いてください。
うふふ。
一応、時間があったら、また書きます。
再度、キミに聞く!
新渡戸稲造がダイナマイトを自ら製造し、爆破させたという事実をキミは知っているか。
しつこいな、ってのはわけあって、
というわけで、いきなりこのブログのタイトルは、
「オチボ通信|ダイナマイトと武士道」
に変更されました。
おっと時間となりました。
また、なるべくまた明日。
参考:十和田市新渡戸記念館(ダイナイトって本当?って問合せしてください)
最期にまたクイーン聴こうよ!
なるべく毎日。ちょびっとでも更新したい、オチボでした。
オチボ通信|ダイナマイトと武士道でした!!
コメント