数年ぶりに目標を持って、ヘタクソながら走りはじめました。もしかしたら、30代末以来に、本気でまた何かやらかそうとしているような自分がいたりして、何やら原点帰りが必要かな、と思って本棚を眺めていたら、数年前の高校の同窓会の会報に書いた文章が出てきました。タイトルどおり、生まれてこの方、相も変わらず、くねくねやっちょりますが、いつもコレでも、本気なんだなぁ、ぼくは。
まあ、読んでください。そして、一緒に、(くねくね)歩きましょう。
美しい、道草。
私は、三本木高校、空手部卒業生である。
厳密には、普通科卒業なのだが、何か最近、空手部卒業、という気がする。
しかも、空手道部ではなく、空手部なのである。
空手道。
その、道、にこだわる時期もあった。
が、最近、空手は空手でいいな、と思う。
空の手から何かをつかむような。
あの頃の私の空手。
それは道なんてものじゃなかった。
道草、というか、土手歩きというか、そんな不細工な空手。
まさに道ならぬ、道草空手。
新入生で入部した空手部は創設四期目と若かった。
歴史も伝統もなかった分、夢と野望ばかりが満ち溢れていた。
あたかも三木野ヶ原の原野を開墾するよな、開拓魂。
と、いえば、かっこはいいが、ただ強くなりたい、という若者の未熟な野望がときめき、時にくすぶる。
そんな若き道草は、不思議な顧問の先生により、一つの豊穣に導かれる。
汗と唾が飛び交い、拳と蹴りが交錯する稽古では、時として、感情が荒く張り裂ける瞬間がある。
それが垣間見えるや先生は稽古を止め、いつもこんな言葉を発した。
もっと、ロマンチックに。
立ち止まったまま、私たちの心は首を傾げる。
ロマンチックって、どういうことさ?
武道に浪漫なら腑には落ちるが、さながら夜更けの歌謡曲。
などと、練習後に揶揄したもの。
その先生の指導のレトリックは、こんな活用だった。
ロマンチックに。 ドラマチックに。
且つ、劇的に。 そして、美しく。
そんな美辞に彩られながらも、師の教える稽古はいたって地味だった。
技も、立ち方も、動作も、無駄なものは一切殺がれて。
移り気な私は、使い物にならぬ補欠選手だった。
一度投げ出して、恋愛道に挑んだら、思い切り相手に振られ倒された。
そのショックを払拭せんがために、ようやく空手の稽古に没頭する。
痛んだ胸に、ロマンチックとドラマチックという師の言葉を刻みながら、
ヘタクソな突きを突き、空を蹴りつづけた。
生き方も、運動も、恋愛も、学問も全部ダメな私は、一点集中しかないと思った。
一つの技だけを磨き、一つの技だけの試合方法に決めた。
万年補欠、天下無名、技も一つだけの変なスタイルの私は、
運良く県大会を個人戦で準優勝し、空手部初のインターハイ選手になった。
同時に団体も同様準優勝。
つい昨日までの万年一回戦敗退校には、まさに夢のような成果だった。
その後、三高空手部は、師の指導の下に強豪選手を次々と輩出し、一つの栄光の時代を築くことになる。
三高を卒業して上京、十数年後の三十代後半、里心がついてきた私は、故郷に関する文献を読み始める。
ある日、司馬遼太郎氏の紀行文集「街道を行く」第三巻「陸奥のみち」を手にとり驚く。
八戸の著名な歴史家の子息として、我が空手の師匠小井川年男先生の名前が、
執筆当時の若き学生として司馬遼太郎氏に、さも親しみ深く語られているではないか。
師の教えの源泉を知るようで、故郷、母校、そして三高空手部への誇りが一気に充満した。
その感動が、故郷への愛着と憧憬に生きようという、その後の人生の行くべき道筋を決定した。
その小井川先生も、今は十和田西高校で教鞭をとり、引退と聞く。
さあ、もう一丁、教えを請いに訪ねてみようか、と思う。
新たなる人生のはじまりに向けて。
そんな想い出が軸となる、私の三本木高校のイメージは、
実にロマンチックで、ドラマチックで、劇的で、
そして、美しく豊穣なる道草なのである。
青森県立三本木高校同窓会東京支部 東京三高会会報
「東京三高会だより 三木野ヶ原」第26号(平成21年6月1日発行)より
参考文献
小井川先生、大変ご無沙汰です。
遠くない将来、吟醸純米酒持って、遊びにいかせていただきます。
いろいろ、すみません。
っていっても、先生がインターネット、見るわけないもんな。
されど、いろいろ、すみません。
コメント