「伽藍が白かったとき」抜粋 ル・コルビュジエ著 生田 勉・樋口清 訳

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2019年5月3日青森県十和田市における太素塚太素祭において、敬々LIVE in front of MUSEUMのオープニングアクトでリーディングさせていただいたテキストをアップいたします。

リーディングしたのは建築家のル・コルビュジエ(Le Corbusier 1887年10月6日-1965年8月27日、スイスで生まれ、フランスで主に活躍)の著作「伽藍が白かったとき」の抜粋です。

翻訳したのが生田勉氏、樋口清氏、二人の建築家の共訳で、生田勉氏は太素塚の新渡戸記念館を設計した大変著名な建築家です。

著作の内容はル・コルビュジエ氏が初めてアメリカ旅行でニューヨークの摩天楼を見たときに感じた<美しい破局>(岩波文庫タイトルカバー案内文より)を表しています。

著作は岩波文庫で400頁弱となかなか厚く斜め読みしておりましたが、文の中の語彙やレトリックにぐいぐい引き込まれて眺めていました。文中に何度もリフレインされる「伽藍が白かったとき」という言葉が音楽のように脳裏に聴こえてきました。

<美しい破局>ならぬ<不条理な過渡期>を迎える新渡戸記念館という赤い瓦屋根をかぶった白い建物に、中世の伽藍のような建築物の必然性のような多面的な妄想やさまざまな人の意図を感じ取りました。

ある日直感的に、一つ新渡戸記念館の前で言葉を声にして叫んでみよう、と思った次第です。

それぞれ読む人の家や周りの環境を思いながら言葉を噛み砕いていくと、様々な善意と悪意を織り交ぜた建築というものの生物学的かつある種オカルティックなメカニズムを思ったりもします。

小声でも声に出してみると、字面が響いてきます。

「伽藍が白かったとき」抜粋 (リーディングタイトル:白い博物館の前に立つこと)
ル・コルビジェ著 翻訳 生田勉 樋口清

伽藍が白かったとき

世界中の彫刻家たちが、いたるところで、無数に無限の力強い生産に携わっている。

毎日、毎日、現在の真実であり美である輝かしさが現れ出る。

恐らく束の間のものであろう。

明日はまた新しい真実、新しい美が咲き開く。

明後日もまた。

かくして生活はいっぱいに満ちている。

生活は美しい。


我々は、未来の事物を永遠のものだと運命を定める意図も主張ももっていない。

そうではないか。

すべては、それぞれの時間においてのみ現在の仕事である。

現在の時間は創造的であり、かつてなく力強い創造者である。

偉大な時代がはじまった。

新しい時代が。

機械文明が、数限りない個人の作品や集団の作品にすでに表明され、

現代生産のほぼ全体と合一し、

仕事場や工場や、また技術家や芸術家の脳から現れ、

事物、法令、計画、思考に、輝き出している。

新しい時代!

かつて7世紀前、新しい世界が生まれ、伽藍が白かったときも、

あらゆる点において今日と同様であった。

伽藍が白かったとき、法規は適用などされなかった。

伽藍は反法規的であった。

伽藍が白かったとき、高さが精神の堕落であるとは誰も考えなかった。

中世の伽藍、カテドラルが白かったとき、

共同作業が完全に行われていた。

建築のことは詳しくはありませんが、そういえば80年代には「建築」という言葉がポストモダン哲学の記号としてよく使われていたのを思い出しました。

時代は、また今、めぐってきているのかもしれませんね。

この本も夢中で読んだ記憶があるのですが、、

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