美しい、の背後に蠢く巨大な 「?」

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アメリカが動き出す。

その蠢きには、ほぼ経済活動を見込んでの破壊活動が付きまとう。

愛と殺戮と破壊とだまし合い。

矢先には、覇権を見越した打算が見えてくる。

またかよ。

美と、破壊と、覇権と、欲望がループする。

などと思案していたら、ひとつのキーワードが見えてきた。

美術館。

我が故郷、青森県十和田市にも、なぜかあります。

なぜか、あるのです。

なぜか、などと不謹慎な言い方ながらも、

ぼくにとっては、なぜか、あるだけ。

当初から思っていましたが、

なぜ、そこに美術館があるのか、その背景がよくわからないし、

おそらく市民の人たちも、その理由がわからないのではないか。

なぜか、そこに、あるだけ。

子供たちには、ちょっと物珍しく刺激的だが、

おじっちゃ、おばっちゃには、(あ)そんなのカンケーねぇ。

なぜそこにあって、今何に向かい、今後どこへ向かうのか?

わからない? それがアートなんだよ、

という言い方もあるけれど、

かくいうぼくもたまに興味をもって行ってみても、

たしかに驚きあるものの、感動がない美術館

いや、感動があっても、共感がない美術館

愛という名の戦争、テロ、理由があるようで、いいわけか、

だましあいか。

私的には、失礼だが、美術館も経済戦争も、

どこか似たような気がしています。

と、思っていたら、面白い記事を見つけました。

いわゆるアートの達人なる人々はどんな観点で、

美術を見るのか。

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美術館の楽しみ方、「歴史」「投資」「癒やし」(『週刊ダイヤモンド』4月1日号より)

美術ブロガー中村剛士氏による
美術を鑑賞する際には、3つのポイント(要約)

1 歴史的観点
 美術を日本史でも、世界史でもいい、歴史的な文脈に位置づけて見てみる。
 例えば、日本なら洛中洛外図屏風が織田信長から上杉謙信の手に渡ったのだな、といった観点。

2 投資的観点
 「万人受けする絵はどれだろう?」という目線で美術品を見る。
 「投資する甲斐のある作品はどれだろう?」との視点とも言い換えられる。
 この作家の作品だから、といった先入観を持たずに、自分の目だけでみて金銭的価値をイメージしてみる。
 正解がどうかはともかくとして、市場価値を考えてみる。

3 癒し的観点
  美術館を「癒やしの空間」として捉える。
  前者2つとは逆の発想になるが、美術館は時が止まったような空間となる。

以上ダイヤモンド オンラインより

つまりは、時を超え、人から人へ、土地から土地へ、利権から利権へ、

渡りに渡って、価値が上がるという

美術とは、ある種貨幣的な経済的トリックなのだろうか、と、思っていると、

ふと、ミュージシャンの三上寛氏と、十和田市の現代美術館前を歩いた時を思い出しました。

数年前、青森県十和田市で「開拓魂」という小さなライブイベントを開催し、同郷の青森県旧小泊村出身のミュージシャン三上寛さんを十和田市に招待した際に、

出来立てでプレオープン中の十和田市現代美術館のある官庁街通りを歩いた。

その日は残念ながら美術館は定休日だったので、街道沿いに見える作りたてのアート作品やらオブジェを眺めながら、ゆらゆらと歩き、美術館の通りの街角にある公園のような屋外常設ステージを通り過ぎたとき、

三上寛さんが一言いったのでした。




「オレは、ここでいいよ。」



屋外の街角の広いステージ、そこで演奏をするのがいいのだ、というニュアンスでした。

その時、昼下がりの十和田市の美術館がオープンしたばかりの官庁街通りで、

ぼくは、妙なことを想像していました。

三上寛と美術館

三上寛ファンの中では三上寛を代表する定番のような歌がいくつかあるが、

その一つに、美術館、に関する作品がある。

その曲を生演奏で聞いたとき、

ほとんどの三上寛の曲をはじめて聞くときによくある、

理解とか知性とか常識を剥奪された原野にポツンと取り残される感覚

え、何、その言葉、それ何、と考えているうちに、

演奏というものごとは、するりするりと次の次元へ走りぬけ、

聞いている本人は極めつけの置いてけぼり感ばかりを覚えている、

あの置いてけぼり感。

つまり言葉と意味をドンと小動物大の大きさで目の前に提示して

(あたかも今時流行りの、ゆるキャラが、生の動物で厳然するように)

(昔でいえば、怪獣ブースカ、ピグモン、等身大のダダ星人、ショッカーのE)

本人はさらりと去ってゆく。

取り残された観客の目の前には、ただただ、おおきな

があるだけだ。

そんなことがこの美術館前に起きたら、

さぞや、それこそ、超非暴力的な暴力だな、などと考えていた。

その時、十和田市立現代美術館が向こうに見える街角ステージにて、

三上寛が、あの問題作を

(とは言っても、三上寛氏の作品はほぼすべてが何かしらの問題作なのだが)

を怒涛のエレキギターとともに十和田市の大空に放ったならば、

それは、そこで聞く人にとって何を意味するのだろうか。

などと、想像すると、

いや、それはマズイだろう!

と、一人勝手に自重したものでした。

その歌で、謎々の言葉が、呪文のようにリフレインされる。

爆破すべき美術館 そうすべきではない美術館

爆破すべき美術館 そうすべきではない美術館

爆破すべき美術館 そうすべきではない美術館


なんだ、それは!

それは、ぼくが言ったのではない、

三上寛が、ずっと前から吼えていた言葉だ。


爆破すべき美術館 そうすべきではない美術館


さあ、これを読んでいるあなたも、一緒に歌ってみよう!


爆破すべき美術館 そうすべきではない美術館

爆破すべき美術館 そうすべきではない美術館

(敢えて、細かな歌詞は書きません)

あなたの心の中にものにあてはめてみてください。


爆破すべき美術館 そうすべきではない美術館

爆破すべき美術館 そうすべきではない美術館

そういえば翌年の2010年の7月、再度ライブ企画で十和田市にご招待したとき、新渡戸記念館という博物館にも一緒に行こうとお誘いしたのですが。。

ライブがはじまる前に、一緒に行こうと話していたのに、

ぼくがステージの仕事で慌しくしている知らないうちに、

三上寛さんは、

独り勝手に十和田市の開祖の新渡戸傳を祭る太素塚にお参りし、

新渡戸記念館を訪問していました。

そして、また知らないうちに、

三上寛の色紙が、新渡戸記念館の展示台に飾られていました。

その日の仕事場面のステージ脇では、

ただ一言、

「記念館、いってきたよ」

と三上寛氏から聞いただけでした。

あれれ、という感触を拭い去り、

目の前にあるステージを進行しなくてはならないぼくが、三上寛氏の新渡戸記念館訪問に関して詳しく知ったのは、東京に帰ってからでした。

しかも、それは、本人ではなく、新渡戸記念館側から写真とともに教えてもらったのでした。

何故、なんで、

風のごとく先手をとり、風のように去っていくアーティスト

歴史も、投資も、癒しも超えるアートって、

こんなことじゃないかな。

現代美術って、こんな当たり前の不可思議にあるのかな。

しかして、そもそも、美術に現代も古代も関係ないんじゃないかな。

すべては未来へ、ではないか。

にしても、


爆破すべき美術館 そうすべきではない美術館

爆破すべき美術館 そうすべきではない美術館


あなたの近くにある美術館は、

誰が発案して、誰の作品を、どこから、どういう理由で、

どれくらいの価格で、運び込まれて、

いつまで展示されているのか、説明できますか?


爆破すべき美術館 そうすべきではない美術館

爆破すべき美術館 そうすべきではない美術館

友よ、もっと考えてみようか。

→まずは新渡戸記念館に行ってみよう!

青森県十和田市の最も不可思議なことは、お化けも怪獣も住めないようなほったらかしの原野が百年計画で都市になるという、ある種SF的な歴史を解き明かす場所がありながら、市民のほとんどが、よく知らない、ということでしょうね。空想科学特撮映画が好きな人には、垂涎モノでしょう。

爆破すべき美術館 そうすべきではない美術館

爆破すべき美術館 そうすべきではない美術館

ぼくは、十和田市全体が美術館だ、とずっと前から考えてたのですが。

で、三上寛、って、何

↓この曲聴いたら、ますます「?」

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